home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

幕末の動乱期から会津戦争・明治・大正を駆け抜けた豪傑女性新島八重と
日本にキリスト教ベースの大学教育の場「同志社」を導入した新島襄の生涯をたどってみよう

幕末、維新、明治、大正を駆け抜けた疾風怒濤のふたり 新島八重と新島襄夫妻 それぞれ、そしてふたりそろっての生きざまから近代日本の幕開けをたどります

八重が生まれた時代を知る

八重が生まれたころ、世界では…

時代は江戸末期。場所は現在の福島県会津。
新島八重、旧姓山本八重はこの地で誕生します。弘化2年(1845年)旧暦11月3日、その日が八重の生まれた日。

激動の潮流が巻き起ころうとするこの時代、世界は、そして日本はどのような状況だったのでしょうか。

会津若松
▲八重が生まれた会津若松

新時代の胎動

18世紀の産業革命により爆発的に力を付けたイギリス。対してイギリスと勢力を争うフランス。貿易競争は激化し、植民地獲得のため西欧諸国はその手をアジアに伸ばしました。
逆にアジアは総じて弱体化がはじまり、攻めの欧州と守りのアジアという構図ができあがります。

その象徴が阿片戦争。輸入超過に陥っていたイギリスが銀の国外流出を防ぐために麻薬である阿片を清国に密輸出し続けてたことが引き金となった戦争です。
清国は度々阿片の取り締まりを実施し、阿片を清国内に持ちこまないという誓約をしない国に対して阿片以外の他の品目の貿易までも禁じたため、イギリスが反発して開戦となりました。
麻薬の輸出が開戦理由というとんでもない話ですが、当時の欧州の姿勢がよく分かる一例でもあります。

1840年 阿片戦争勃発

かたや日本ですが、250年近く続いてきた江戸幕府は泰平の世を謳歌してきたものの疲弊化も激しく、財政の再興のため天保の改革が実施されていました。
阿片戦争での清国の敗退を鑑みた幕府は鎖国体制は維持しつつも、外国船を追い返すという内容の「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を撤廃し、遭難した船に限り燃料や水の給与を認める天保の薪水給与令を天保13年(1842年)に発令します。

また清国の魏源(ぎげん)が編集した世界地理書で「外国の先進技術を学んで、侵略から防御する」という思想を語った海国図志(かいこくずし)が日本の思想家に流通し、外国への対策を緊急の課題として俎上に載せねばならない時代へと突入するのです。

八重の家族

会津の山本家

戦国武将の山本勘助(やまもとかんすけ)を祖に持つ山本家。会津藩主の保科正之に招かれて山本道珍が藩の茶道頭に就任したことから、山本家は会津に根を下ろします。道珍は茶道遠州流を会津に広めた立役者。
その後、山本家は兵学の分野で会津藩に仕えます。五代目良久には男子がいなかったので、娘さく(咲・佐久)の婿養子として権八(ごんぱち)が迎えられました。

権八39歳、さく37歳のとき、女子が誕生します。これが八重です。権八夫妻は5人の子を儲けますが、早世した子もあり、八重は17歳年上の兄覚馬(かくま)と2歳年下の三郎の3人兄弟で育ちました。

権八は上士黒紐席と呼ばれた身分の武士。会津若松の城下町はその身分によって住居が定められていたため、百~二百石の家禄の武士が屋敷を構えていた米代四ノ丁に住んでいた権八も、それ相応の家禄を貰っていたとされています。

八重が育った米代四ノ丁
▲八重生誕地の碑 (福島県会津若松市米代2丁目)

城下町の中心で生まれ育つことになる八重。会津の風土の中で、一体どのような幼少期を歩んでいくのでしょうか。


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画像引用:財団法人福島県観光物産交流協会(http://www.tif.ne.jp/jp/photo/)