home 八重 襄 八重&襄 八重 平清盛ゆかりの地を訪ねる

明治日本にキリスト教高等教育を導入した同志社大学の創設者新島襄。
襄の幼少期は近代日本の幕開けとともにありました

襄の生誕とペリー来航

襄の幼少期

新島襄誕生

天保14年(1843年)、八重が生まれる2年前に襄は誕生します。 場所は江戸の神田。
安中藩、今の群馬県安中市の藩主だった板倉伊予守の江戸屋敷において、下級藩士民治(たみじ・たみはる)と妻とみの子として生まれました。都営地下鉄三田線神保町駅のほど近くに生誕地をしめす石碑があります。

新島襄先生誕生之地
▲新島襄先生誕生之地の碑

襄の幼名は七五三太(しめた)。ちょっと風変わりな名前ですが、その命名には説が2つあります。
まずは、正月の注連飾り(七五三飾り)を取り外す飾納(かざりおさめ)の日である1月14日生まれだから命名されたという説。

そして、くわ、まき、みよ、とき、と女子が4人続いたので、男子生誕の報を知って喜んで発した「しめた!」という感嘆詞から命名されたという説も。
また、さらに4年後男子が生まれた(双六)ので、襄は6人姉弟ということになります。

額のキズ

幼少期の襄は非常に活発な子でした。いわば子供らしい子供でしたが、嘉永3年(1850年)8歳のとき、足を踏み外した拍子に石に額を打ちつけて、左額に大きな怪我をしてしまいます。
キズが癒えるまで2か月も要し、そのは生涯消えず、ときに姉たちからは「メッパチ」(ものもらい)とからかわれたそうです。

新島襄
▲左の額に傷が残っています

額の傷は幼心にショックも大きく、人と会うのも恥ずかしいと思うようになってしまった襄。以降は外で遊ぶよりも家の中で書道や読書に耽るようになりました。そこで、あまりに内向的なのはよろしくないと考えた両親の勧めから、襄は礼法の師のもとに通い、礼儀作法の講義を1年以上受けています。

鎖国から開国へ

欧州の戦火

一方世界では、大きな国家間の争いが繰り広げられていました。
1853年(嘉永6年)、ロシアがオスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護権を主張したことが原因で、パレスチナの聖地管理権をめぐるいさかいを経て、クリミア戦争へと発展します。オスマン帝国側にイギリスとフランスなどが味方したため、戦闘は広範囲で大規模なものへ拡大。

しかし、産業革命を経験しているイギリスとフランス、経験していないロシアではその軍力差は歴然で、英仏はなんと遥々カムチャツカ半島にまで攻め入ります。最終的には双方領土的に何も得るものはなく、戦費と兵士を疲弊した結果、英仏の発言力の増加とオスマン帝国の欧州列強従属化、ロシアの後進性の露呈といった終幕を迎えました。

1853年(嘉永6年)クリミア戦争勃発

この大規模な戦争に欧州が手一杯だった隙を狙って動いた国がありました。アメリカです。

同年6月3日、神奈川県浦賀沖に黒船が襲来しました。黒塗りの船体の外輪船は蒸気機関で動き、もくもくと煙を吐く姿に岸は見物の野次馬で人だかりとなります。黒船は湾内の測量をしたり、空砲を撃ち放したりと勝手気ままな行動をとり、将軍ないしはそれに応じた身分の者への面会を幕府に申し出ます。

蒸気外輪フリゲート「サスケハナ号」
▲蒸気外輪フリゲート サスケハナ (Susquehanna)号

結局幕府は将軍徳川家慶の病床を理由にして、浦賀奉行がマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)と面会。開国を促すフィルモア大統領の親書を手渡したのでした。
アメリカが日本に開国を求める大きな理由は、植民地開拓でイギリスやフランスに後れをとるまいと太平洋航路開拓のためと、当時盛んだった捕鯨のための船の燃料・水の補給のためのふたつ。

幕府は1年後に回答すると返事を保留しますが、結局開国をせざるを得なくなります。250年弱に渡り続いた鎖国の時代が終わった瞬間でした。

1853年(嘉永6年)黒船襲来
順番に読む 襄の話の続きを読む
画像引用:千代田区観光協会(http://www.kanko-chiyoda.jp/)