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新島襄は元服して働き始めますがルーチンワークに辟易。
蘭学にのめり込んでいきます

襄の成長とくすぶる不満

学問に熱を入れる襄

蘭学との出会い

安中藩の第5代藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)は学者藩主と呼ばれたほどに学問を奨励し、学問、馬術、剣術を義務化しました。
それを受けて11歳になった新島襄も馬術と剣術に精を出しますが、次第に興味は漢学へと移って行きます。14歳のとき、襄は藩の儒学者添川廉斎(そえかわれんさい)の指導のもとで漢籍の勉強を始めたのでした。安政3年(1856年)のことです。

そのころ藩主がはじめて緒方洪庵のもとで学んだ蘭学者・田島順輔(たじまじゅんすけ)を招聘し、藩のなかから優秀な3名の生徒が彼のもとで蘭学を学ぶことになります。そのうちの一人に襄も選ばれました。

蘭書
▲蘭学の勉学に用いた蘭書(佐賀藩の蘭書)

翌年安政4年(1857年)、15歳になった襄は学問所助勤となり、漢文の素読を教える句読師(くとうし)として働くことになります。同時に蘭学の勉強にも邁進するはず、だったのですが、ここに来て襄を取り巻く学問の環境が悪化するのです。

まず襄の蘭学の師、田島順輔が長崎へ赴任してしまい、蘭学を学ぶ術を失ってしまうはめに。そして学問に深い理解を示していた藩主・板倉勝明が死去。次いで藩主となった板倉勝殷(かつまさ)は学者肌ではなかったため、襄の勉学の場は整いません。以前漢学を教わっていた添川廉斎や尾崎直記を頼りますが、翌年には揃って死去してしまいます。

その後、藩としては親戚にあたる備中松山藩の藩儒、川田甕江(かわたおうこう)が来藩したことで、襄は漢学の師をようやく得ることができました。

安政4年(1857年)11月、襄は元服の式を挙げました。七五三太(しめた)の幼名を敬幹(けいかん)と改めて、祐筆補助役に就任します。

安政の大獄と桜田門外の変

幕府と尊王攘夷派の対立

黒船の襲来により政治的開国を余儀なくされた日本でしたが、経済においても米国をはじめとした諸外国から開国を迫られていました。しかし攘夷派の公家や孝明天皇が通商分野での開国に反対したため、幕府は反対派をおしのけて強硬に米国との交渉を進めざるを得ません。
大老井伊直弼は、清国がイギリスに痛めつけられている現状などを鑑み、比較的友好的な米国と関係を結んだほうがいいとの結論を出し、孝明天皇の勅がない状態で日米修好通商条約を安政5年(1858年)に締結してしまうのでした。

1858年(安政5年)日米修好通商条約

米国と結んだこの条約は修好との名こそありますが、アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったため、不平等条約として知られています。
日本はその後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じような条約を立て続けに結びました。

幕府のこの行動に怒り心頭なのが攘夷派。対外的危機意識は燃え上がり、幕府の弱腰姿勢に反発を強めます。
外国からも国内からも責められる状態に陥った幕府は、どのような行動に出たのでしょう。

その解答が安政の大獄でした。井伊直弼は攘夷派の粛清をはじめたのです。吉田松陰をはじめとする尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らが弾圧の対象となり、連座した者は100人以上にのぼりました。

当然さらに反発は強まり、安政7年(1860年)、江戸城桜田門近くで井伊直弼は殺害されます。(桜田門外の変)これで収束とはいかず、この後も尊王攘夷派の勢いは増していくのでした。

桜田門外の変
▲桜田門外の変
1860年(安政7年)桜田門外の変

襄の不満

退屈な日々

元服した襄は初めて安中を訪れました。安中では藩主の送迎や筆記記録の仕事で忙殺される日々が続き、うんざりしはじめます。おまけに父の民治が職務で大阪へ赴任してしまったため、父が抱えていた書道教室の仕事までさせられることになり、辟易としていました。

さらに上手い具合にオランダ語の師が見つかったこともあり、仕事よりも蘭学だとばかりに、そちらにのめりこむようになった襄は、上司に叱責を受けてしまいます。
そして仕事の量は増えるばかり、鬱憤はたまるばかりで、鬱っぽくなってしまう襄。蘭学書を読むための時間もずれ込んで、どうしても夜の暗い中になってしまったことから、目も患ってしまいました。

眼病が治った襄は萬延元年(1860年)、蘭学書に載っている計算を理解するため、藩の許しを得て、幕府の築地軍艦教授所に通って数学を学びました。場所は現在の東京築地の中央卸売市場のあたりです。

この軍艦教授所が襄の人生を大きく変えることになります。


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画像引用:武雄市図書館・歴史資料館(http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/)