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アメリカで着々と学問を修める新島襄は
アーモスト大学に入学します。

襄のアメリカ留学生活

アーモスト大学へ

襄、アーモスト大学へ進む

慶応3年(1867年)夏。襄はバカンスを楽しみます。バカンスの場所はノース・チャタム(North Chatham)。そこは襄をアメリカまで連れてきたワイルド・ローヴァーのテイラー船長の生家がある町でした。
下図でピンク色のピンの位置がノース・チャタムで、黄色ピンが卒業したアンドーヴァのフィリップス・アカデミーです。

船長の生家でも襄は温かいもてなしを受け、のんびりと楽しく余暇を過ごしました。チャタム湾で船遊びをしたり、教会に通ったりしたという書簡が残っています。
そうはいえど、安中藩時代に一度悪くなった目はなかなか良くならず、身体の不調は今後酷くなっていきます。

9月、襄はアーモスト大学(アマースト大学、Amherst College)に入学。アーモスト大学はボストンから汽車で4時間。西へ100kmほど離れた土地にあり、文政4年(1821年)に設立された名門の私立大学です。
こちらもフィリップス・アカデミー同様にピューリタン教育に力点を置いた牧師養成のための大学でした。また、全寮制少人数教育を特徴とし、基礎的な教養を磨く中で物の考え方を養うことに重点を置いたリベラル・アーツ・カレッジ(Liberal arts college)でもあります。

アーモスト大学
▲アーモスト大学

ボストンから汽車で到着した襄を出迎えてくれたのは、J・H・シーリー(Julius Hawley Seelye)。神学生のフリントが紹介状を書いてくれました。紹介状には礼儀作法において襄はジェントルマンであると記され、シーリーは駅で出迎えただけでなく、ハーディーの依頼を受け当面必要な金銭などを用立ててくれていました。
シーリーはアーモスト大学の道徳哲学の教授であり、のちに連邦議会の議員を務めます。

襄の大学生活

襄は大学で化学、植物学、数学、物理学、鉱物学、地理などの学科を学びました。患っている目を庇いながらの学問はつらいもので、次第に頭痛に悩まされはじめます。風邪をこじらせては部屋から出られなくなり、故郷の日本ではなくアンドーヴァーへのホームシックをメアリー・エリザベス・ヒドゥンに手紙で吐露することもありました。

慶応3年12月、新暦では年が明けて1968年の1月。アーモスト大学からさらに西へ50kmほど向かったところにあるヒンズデール(Hinsdale)に襄は出かけます。
ヒンズデールにはヒドゥン家でともに暮らしていたフリントが赴任していたのです。ヒンズデールの牧師館にて日曜学校の教師や生徒を招いたところ、彼らは日本人の襄に興味津々。襄は日本語の歌や弁論を披露し、大いに喜ばせたのだそう。
(下図が位置図。アーモストが黄緑ピン、ヒンズデールは水色ピン)

留学生活を謳歌する襄でしたが、祖国日本の動乱は遠く離れた襄の耳にも届いていました。薩摩藩士による放火や強盗が実家にまで及んでないか心配する襄。
幸いに実家は無事でしたが、母が非常に心配しているといった旨の手紙が日本の父から届き、それに対して襄は神が命じるときに帰国したいと返信したようです。

また、襄の体調不良はリューマチの発症にまでおよび、心配したシーリーが招いてくれたのに甘えて、寮からシーリー邸へしばらく生活の場を移しました。

J・H・シーリー
▲J・H・シーリー

再び夏が来ました。体調も好転したため、精力的に勉学に励みます。鉱物にも興味を示し、マサチューセッツ州、コネティカット州とロードアイランド州の山を巡って鉱物の採集をして夏の休暇を過ごしています。
さらに製鉄所や兵器、製紙、織物の工場を見学して、進んだ西洋の文明を着々と吸収していくのでした。

学問に真摯に向かいあう襄の姿にはシーリーも感銘を受け、「金にメッキすることはできないのだ」と襄を評価したといいます。


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