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アメリカで着々と学問を修める新島襄は
森有礼との出会いを果たします。

襄と森有礼の出会い

アーモスト大学からアンドーヴァー神学校へ

テイラー船長の死去

アーモスト大学で勉学に励む襄。そこへひとりの男性が彼を訪ねてきます。彼はマサチューセッツ州の中西部の都市スプリングフィールド郊外にあったモンソンアカデミー(Monson Academy、現Wilbraham & Monson Academy)で学ぶ日本人でした。名前は湯地定基(ゆちさだもと)。当時は工藤十郎と名乗っており、襄に対面したときは日本語で「ニイシマ、ゴキゲンヨロシイカ?」と挨拶したそうです。定基は長崎から密出国し、薩摩藩第二次米国留学生としてアメリカへ渡った6名の薩摩藩士のひとりです。礼拝を見たいと申し出る定基を襄は快くチャペルなどへ案内します。

定基は帰国後、根室県令として北海道へ渡り、寒冷地でも成育が見込めるじゃがいもの作付を広めました。最初は否定的だった住民も定基の熱心な奨励にほだされ作付をしてみれば、なかなかの収穫実績となり根釧台地の特産に成長します。その功績から定基は芋判官というニックネームで愛されました。道央の栗山町には苗字の「湯地」という地名も残っています。

湯地定基
▲湯地定基

明治元年12月、新暦では年が明けて1969年1月、襄はこの冬休みもヒンズデールのフリントを訪ねて過ごしました。ヒンズデールではソリ遊びをしたり幻灯機や回転のぞき絵(ゾエトロープ)を愉しんだりしたと綴っており、その帰路にもモンソンアカデミーに立ち寄って日本人留学生と会っています。

4月にはチャタムで行われたテイラー船長の両親の金婚式にも招かれ、そこでも家族の一員として扱われました。夫妻に挟まれるように仲良く襄が写る写真が残っています。
また、祖国日本の両親からも長い手紙が来て、皆無事でいること、宗旨替えについて特に苦言がないことなども書き残しています。
再びやってきた夏休み、襄はチャタムでのんびり過ごしました。この頃の襄の健康状態は良好で、午前中はラテン語の勉強をして、昼からは読書や遊びに興じていたようで、近所の人に誘われて釣りに出かけたら鱈を67匹も釣ったが船酔いしたのだそうです。

年末、訃報が飛び込んできました。テイラー船長がボストン港で事故に遭い死亡したのです。電報を受け取った襄はボストンへ急行し、葬儀に参列します。葬儀で目にした船長の親族が敬虔さとは縁遠い信仰心だったことに心を痛めた襄。彼らを正しい信仰に導こうと行動を起こしました。

アンドーヴァー神学校へ

また年が改まり明治3年(1870年)、いよいよアーモスト大学を卒業する段となった襄に再び試練が訪れます。
健康の悪化、リューマチです。病を抱えつつアーモスト大学を卒業した襄は、なつかしのアンドーヴァーへ戻り、以前に洗礼を受けたアンドーヴァー神学校へ進み、牧師を目指します。
下の写真はアーモスト大学在学中に級友の求めに応じて、脱国時の扮装をした襄の姿です。

脱国時の扮装をする襄
▲脱国時の扮装をする襄(函館市中央図書館蔵)

アンドーヴァーでの襄はリューマチとの戦いの日々でした。寮の3階から下りる時は友人に手を貸してもらい、ボストンのハーディーの家を訪ねるときも満足に歩けないためソリに乗って移動しました。
年が明けてもまだ闘病の状態が続き、ハーディー夫妻に甲斐甲斐しく面倒を見てもらったおかげでようやく少し回復します。

森有礼との出会い

森有礼との出会い

明治4年(1971年)春、襄に新たな出会いが訪れます。
ボストンで森有礼(もりありのり)と面会したのです。森は駐米少弁務使、今で言う駐米大使として米国に赴任しており、のちに一橋大学を創設し、日本初の文部大臣になります。
森は襄に対して旅券と留学免許状を発給を斡旋してくれ、これにて襄は晴れて密出国者の立場から正当な留学生としての立場を取得しました。

森有礼
▲森有礼

翌年の明治5年(1972年)2月。襄は森から米国の教育制度についての調査を求められます。
当時、明治新政府は諸外国の進んだ現状を視察すべく、大規模な視察団を米国に派遣していました。いわゆる岩倉使節団です。使節団は岩倉具視を筆頭に木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文など錚々たる顔ぶれで、この視察が単なる視察ではなく、日本の置かれた状況の打破にも力点が置かれていたことを示しています。
その代表的なものが不平等条約の改正でした。

襄は森から電報を受け取り、報告のためにワシントンへ向かいました。ワシントンでは理事官の田中不二麿(たなかふじまろ)と面会します。
挨拶の時、襄はお辞儀をしませんでした。田中が握手をしてくるのを待っていたのです。田中が手を差し出すと、襄は握手をし、会釈をします。一見、不遜に見える襄の態度ですが、あくまでも襄は郷に入ればの趣旨で西洋式の挨拶の手順を踏みました。

西洋の流儀を完全に会得した襄に対して田中は大いに感心し、襄に日本の教育について論文を書くように命じます。襄も大いに発奮し、思うがままの理想の教育について執筆を誓うのでした。


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画像引用:北海道大学付属図書館
(http://www2008.lib.hokudai.ac.jp/modules/tinyd42/index.php?id=1)
函館市中央図書館(http://www.lib-hkd.jp/digital/index.html)