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襄は岩倉使節団に同行して欧州へ渡ります
そこで得た知識は近代日本の教育行政に大きな役割を果たすことに

襄、欧州へ渡る

襄、欧州へ渡る

岩倉使節団とともに

田中不二麿は襄を岩倉使節団へ誘いました。襄は明治政府の支配下として動くことを躊躇し、雇用関係というかたちで労働の対価として報酬を受けられるならという条件で同意します。その報酬は年棒にして2,100ドルという額で、日本円に換算すると2,100円。1円はおおよそ現在の2万円ほどの価値がありましたので、4千200万円と驚くべき高給でした。

三等書記官心得として田中不二麿の秘書兼通訳になった襄は、のちにも襄と関わりをもつことになる木戸孝允(きどたかよし)とも面会し、木戸は自身の日記に「後来頼むべきの人物」だと襄を評しています。

明治5年(1872年)5月、襄はアンドーヴァー神学校を休学し、使節団の一員として田中不二麿とともに欧州へ渡りました。
イギリスにまず到着した襄たちは、マンチェスターやグラスゴー、エディンバラなどを訪問。エディンバラ大学(The University of Edinburgh)などを訪ねて町並みの美しさをメアリー・エリザベス・ヒドゥンに手紙で語っています。

エディンバラ大学
▲エディンバラ大学

次いでドーバー海峡を渡った襄はヨーロッパの各諸国を巡ります。
ドイツでも田中の通訳として動き、視察で得た各国の教育事情を学んでいきました。ここで会得した知識を襄がまとめた草案は、のちに帰国した田中によって理事功程という調査報告書になり政府に提出されました。これは明治12年(1879年)に制定された教育令の立案において重要な資料とみなされ、現代教育の基礎の一端を襄が担った証でもあります。

ところが、寒冷なヨーロッパの気候のせいか襄の体調は日増しに悪化します。頭痛に悩まされ、リューマチも再発。ドイツ中西部ヘッセン州のヴィースバーデン (Wiesbaden) の温泉で温泉治療も試しますが、寒さからかなかなか改善しません。
田中からは日本に帰国して教育行政の一翼を共に担ってほしいと依頼されるものの、それを断り、使節団も退職してじっくりと療養に専念しました。
ここドイツでも襄は木戸と再会しています。

一時はアメリカに戻っても南方の暖かい地域の神学校に入るべきか迷った襄ですが、ハーディーの進言もあり、やはりアンドーヴァーの神学校を卒業すべきだと決意。明治6年(1873年)7月、襄はアンドーヴァーへ帰り、アンドーヴァー神学校に1年半ぶりに復学しました。

5,000円の重み

襄、牧師になる

アンドーヴァー神学校を無事に卒業した襄は、キリスト教団体アメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missions)の日本部門の準宣教師に任命されます。アメリカン・ボードとはハーディーが理事を務める主に海外でのキリスト教伝道を目的とした団体で、後年には日本組合基督教会(昭和16年(1941年)に他団体と合併して日本基督教団になった)の設立に協力しました。

明治7年(1874年)の夏にはハーディーの招きでメイン州バー・ハーバー(Bar Harbor)に赴いてバカンスを過ごします。(下図赤ピンがバー・ハーバー、黄色ピンがアンドーヴァー)ヨットセーリングや釣りなどをして襄は楽しく過ごしたようです。

9月。ボストンに出向いた襄。中心地のアシュバートンにあったマウントバーノン教会(Mount Vernon Church)で按手礼(あんしゅれい・聖職者が志願者の頭の上に手を当てて行う任命時の儀式)を受け、正式に牧師となりました。

ボストン アシュバートン
▲ボストン アシュバートン

ラトランドでの演説

このころには日本に帰国する考えが固まっていた襄。キリスト教を日本でひろめ、それに基づいた教育をするべしとの信念が完成したのです。
その折の10月、アメリカン・ボード第65回年会がアンドーヴァーから北西へ200kmほど離れたヴァーモント州ラトランド(Rutland)のグレース教会(Grace Church)で挙行されました。

グレース教会
▲グレース教会

この会において日本行きが決定していた襄に、壇上で挨拶する機会が訪れます。3,000人もの観衆の前で襄が話したことは、彼の真摯なる願いでした。それこそ日本にキリスト教教育の学校を設立したいというものだったのです。涙交じりに語る襄の姿は感動を呼びます。その場において設立資金を募ったところ、実に多くの献金が寄せられました。その額、なんと5,000ドル。約1億円近くにもなったのです。もちろん全てが献金によるものではなく、アメリカン・ボード理事のハーディーからの援助が多く含まれています。

その献金のなかでも、とりわけ襄を打震わせたのが、演説後の襄のもとに駆け寄って帰りの汽車賃をそのまま出してきた貧しい農夫と、帰りの駅で襄に「会場で差し出すには恥ずかしい金額だったので」と申し出た婦人のわずか2ドルずつの寄付でした。
わずか2ドルとはいえ、当時の日本では4万円もの価値になりますので、個人の寄付額としては充分なものだとも言えますが、身なりの貧しい人までもが自分の演説に賛同して身銭を切ってくれたという感動はいつまでも襄の心の中に残ることになりました。

襄はこの資金を手に、キリスト教教育の実現に向けていよいよ日本に戻るのです。


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画像引用:エディンバラ大学(http://www.law.ed.ac.uk/pg/studyinginedinburgh.aspx)
Mr. Prez(http://en.wikipedia.org/)