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日本にキリスト教教育の学校を開く夢を胸に帰国した新島襄。
まず郷里・安中へ戻った襄は家族にキリスト教を説きます

襄の帰国、そして大阪へ

10年ぶりの帰国

両親のふるさと安中へ

明治7年(1874年)11月。横浜の港にひとりの青年が降り立ちました。ジョセフ・ニイシマです。10年ぶりに祖国の土を踏みしめた襄は、真っ先に両親のもとへ向かいました。襄の両親は江戸を離れ、故郷の群馬県安中へ戻っていましたのでそちらへ急行します。

家族との再会を喜ぶ襄でしたが、残念なことに弟の双六は襄の米国滞在中に既に死亡していました。
家族に米国での体験を語り、キリスト教の教えを熱心に説く襄。父・民治も母・とみも襄の話に聞き入り、キリスト教に入信します。

襄は安中の家にはわずか3週間ほどしか滞在しませんでしたが、襄の日本での活動の大切な出発点となりました。襄の両親の住まいは新島襄旧宅として現在も残されており公開されています。

襄の布教はもちろん家族だけにとどまりません。近所の人たちもアメリカ帰りの同郷人の話を興味津々で聞きたがり集まってきました。
襄は藩校造士館と竜昌寺を会場にキリスト教の講義を行い、30人もの求道者を誕生させました。彼らは日曜ごとに聖書研究会を実施し、のちのち教会を設立します。安中教会です。

新島襄旧宅
▲新島襄旧宅(群馬県安中市安中1-7-30)

アメリカではジョセフと名乗っていた襄ですが、帰国後はJoeに襄の漢字を充てて、以降は新島襄の名で活動を開始します。
安中での布教で手ごたえを感じた襄は、ひと足先に日本入りしていたアメリカン・ボードの宣教師ダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)に手紙を出して、さらなる安中での布教の許可を得ようとしました。

しかしグリーンの返事は「関西に来て布教するように」との内容でした。当時さまざまな教派のキリスト教団体が日本に布教に来ていましたが、アメリカン・ボードはそれら他団体に遅れをとっていました。そこでアメリカン・ボードは既に他団体が幅を利かせている関東ではなく、比較的手薄だった関西に目を付けたのです。

ダニエル・クロスビー・グリーン
▲ダニエル・クロスビー・グリーン

襄、大阪へ

関西で布教活動を始めていたアメリカン・ボードは神戸を中心に大阪でも活動していました。大阪での活動の中心になっていたのはM.L.ゴードン(Marquis Lafayette Gordon)という人物。ゴードンはアンドーヴァー神学校の卒業生で襄の先輩にあたります。

神学校を襄よりも先に卒業したゴードンは来日後、襄に手紙を送っていました。その内容は外国人ならではの壁である「言語が通じない」ことと、日本語が話せる襄の帰国と助成を求めるものでした。
しかも襄が5,000ドルもの大金を学校設立のために米国から持ち帰ったこともあり、その資金を利用した大阪での学校設立を図ったのです。

当初、安中での学校設立を考えていた襄でしたが、グリーンの指示に従い大阪へ向かいます。襄は大阪・川口居留地(大阪市西区)にあったゴードンの家に寄宿し、大阪の地でキリスト教教育の学校設立を目指しました。

襄は岩倉使節団の一員で米国やドイツで面会した木戸孝允に再び会う好機を得ます。木戸はキリスト教教育の学校設立に理解を示し、大阪府権知事(副知事的な役職)である渡邊昇(わたなべのぼる)を紹介してくれました。

渡邊昇
▲渡邊昇

しかし、渡邊は首を縦に振りません。学校を設立することは認めるが、キリスト教教育は認めないというスタンスだったのです。
渡邊は大阪府権知事になる前は長崎裁判所諸郡取調掛に就いており、「耶蘇宗徒処置取扱」を命じられていました。キリスト教徒の処置とはどういうことでしょう?
それを知るには浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)という事件を解説せねばなりません。

浦上四番崩れ

長崎県長崎市浦上は浦上天主堂で有名であるように以前からキリスト教徒が多く存在していました。とはいえ当時の日本はキリスト教信教は禁止されていたので、いわゆる隠れキリシタンとしての信仰を続けていたのです。
当然禁教なわけですからバレたら罰則があります。江戸時代中期から幕府側にバレては弾圧されることが3度続き、とうとう慶応3年(1867年)には4度目の弾圧が起きたのでした。

浦上の信徒が一斉に捕縛され激しい拷問を受けて改宗を迫ったことが明らかになると、西洋諸国は一斉に非難を開始します。
そのまま政権が幕府から明治新政府に移ってからもキリスト教の禁止政策は継続されていたため、3,394名もの浦上村民が流罪となり、流刑地でも拷問を受けていました。
その流罪処置に関わったのが渡邊だったのです。

浦上天主堂
▲浦上天主堂(長崎県長崎市本尾町1-79)

村まるごと流罪というのは前例がないことでもあり、信仰弾圧に対する国際非難は激しさを増しました。岩倉使節団による条約改正交渉が難航した理由の一つがこの事件だともされています。
そしてついに明治6年(1873年)、国際世論に押される形で政府はキリスト教を解禁しました。襄が帰国する1年前のことです。

キリスト教の信仰と布教がOKになったとはいえ、渡邊のキリスト教への感情は変わらず悪いまま。襄の望み、キリスト教教育学校の開設は到底認められません。行き詰ってしまった襄は再度、木戸孝允に相談を持ちかけることにしました。
相談を受けた孝允は襄にある人物を紹介します。その人物こそ覚馬と二人三脚で府政を盛りたてていた京都府大参事(現在の副知事)の槇村正直だったのです。


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画像引用:上総の写真(http://blog.goo.ne.jp/colhanjp)