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八重と離れ離れになった川崎尚之助は斗南藩で窮地に陥り…
一方京都では襄が初めて八重と出会います

八重と襄の出会いと川崎尚之助の死

川崎尚之助の死

窮地に陥る尚之助

会津戦争ののち謹慎処分となり、その後謹慎を解かれた会津藩士たちと同じようにやや遅れて斗南藩に入った八重の夫であった川崎尚之助は、藩から開産掛に任命されます。豊かな会津藩と違い、火山灰土で荒涼とした土地を開墾せねば生きていけない斗南藩は石高3万石の名目とは裏腹に実質7,000石ほどしかなく、まして朝敵の汚名を着せられていたこともあって、困窮に困窮を重ねていました。

となれば商取引で利益を得て生きて行くしかないと判断。外国との先物取引を手掛けるのですが、それが全ての間違いだったのです。


円通寺
▲斗南藩庁が置かれた公館・円通寺(青森県むつ市新町4-11)

外国人との先物取引のために北海道へ渡った尚之助は、函館で米座省三(よねざしょうぞう)という男と知り合い、藩内で栽培する大豆と交換条件に米の先物取引を実施。
ところが米座は先物手形を持ち逃げしてしまうのです。
幸いにして逃亡先の東京で米座は逮捕され手形は取り戻せましたが、大豆栽培の失敗で約束していた交換量を確保できず、取引で手に入れた米を売却するも米相場の下落で返済ができなくなりました。

返済されないとなれば訴えられるのも当然のことで、裁判の場で尚之助は被告となってしまいます。斗南藩も一連の事件に関しては無関係を決め込み、尚之助自身も独断でやったことだと述べたため、孤独な戦いを強いられることになりました。

尚之助の死

東京で行われた裁判中、尚之助は困窮の身のままでした。東京では保護観察下におかれ、見る影もなく痩せ細っていたといいます。
ちょうどこのころ、八重は覚馬とともに東京に来ていたのですが、八重が尚之助と再会したという話もあります。ただ、これは史実ではなく創作の疑いが濃厚です。

ついで裁判の場が函館に移ると、尚之助も函館へ移動することになるのですが、病に倒れて函館行きは断念となりました。
病に罹っても医者に診てもらう金もなく、ついに肺炎をこじらせて東京医学校病院(現・東京大学医学部附属病院)に入院します。しかし治療の甲斐なく明治8年(1875年)3月、尚之助は永眠しました。

願成寺
▲願成寺(兵庫県豊岡市出石町東條32)

尚之助は川崎家の菩提寺である兵庫県豊岡市の願成寺(がんじょうじ)に弔われたとされており、供養・顕彰碑が境内に立っています。
裁判は尚之助死亡に伴い中止となり、幕引きを迎えました。

八重と襄の出会い

八重、襄を使用人と勘違いする

そのころ、大阪を中心に布教活動をしていたアメリカン・ボードのM.L.ゴードンは、京都で積極的に外国人を誘致した博覧会の開催を受けて京都に滞在していました。
博覧会でゴードンは覚馬と出会い、中国語で書かれたキリスト教伝道の書である天道溯原(てんどうそげん)を覚馬に渡します。

覚馬は目が見えないので代読で内容を学び、その趣旨に感銘を受け、京都府大参事(現在の副知事)の槇村正直をゴードンに引き合わせました。
また、八重にも聖書を学ばせるようにしたのです。

天道溯原
▲天道溯原

八重はゴードンが滞在していた三条木屋町の借家へ赴き、ゴードンから直接聖書を学ぶようになりました。
明治8年(1975年)4月のこと、ゴードンのもとをいつものように訪ねた八重は家の玄関先で靴を磨いていた男性を見かけます。
ゴードンの使用人かしら?と大して気にも留めずに家に入って行く八重。ゴードン夫人から新島襄と言う人が来ていると言われて紹介されてみると、なんとさきほどの靴磨きの男こそが襄だったのです。

これが八重と襄の最初の出会いでした。
しかしこのとき、二人は大した話もしなかったそうです。むしろ学校設立を望んでいた襄は八重自身よりも八重が勤めていた学校である「女紅場」に興味を惹かれたのだとか。
ところが、わずか半年後には二人は婚約します。半年の間にいったい何があったのでしょうか?


順番に読む
画像引用:豊岡市環境経済部大交流課(http://www.city.toyooka.lg.jp/)
南山大学図書館(http://office.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/bulletin/kiyo7/kiyou11.htm)