home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

戊辰戦争終結後、長らく訪ねることのなかった会津。
八重と襄は伝道の旅の途中、会津へと向かいました

八重と襄の会津・安中里帰り

ふるさと会津・安中へ

山本みねの結婚

熊本バンドの一員で同志社英学校で学び、卒業した者の中に横井時雄(よこいときお・伊勢時雄)という人物がいました。卒業後彼は愛媛県の今治で伝道活動をしていました。
その時雄ですが、明治14年(1881年)、山本覚馬の娘・みねに求婚。覚馬もあっさり了承して結婚の運びとなります。翌年、長女の悦子が誕生しました。

山本みね
▲山本みね(右)と級友(写真:同志社女子大学蔵)

八重と襄、安中へ向かう

明治15年(1882年)7月、襄は東北地方への伝道のため、自責の杖事件後に同志社を去った徳富猪一郎と横井時雄たちを誘って京都を出発します。今回の東征は東海道沿いではなく、中山道経由で徒歩にて向かいました。

道中、長野県上松町の名勝・寝覚の床(ねざめのとこ)に立ち寄った一行は、なんと蕎麦の大食い大会を始めてしまうのです。
そう、襄は酒も煙草も嗜みませんが、蕎麦にだけは目がなかったのでした。猪一郎の後述によれば、この競争で襄は9杯も蕎麦を平らげましたが、猪一郎はそれをなんとか上回る9杯半を食べきり、襄の負けとなっています。負けた襄は蕎麦代を支払ったのだそうですが、そのときの襄の食べっぷりを猪一郎は「命さへ打込む程」だったと表現しています。

ちなみにこの蕎麦の大食い大会、内緒で行われたらしく口外厳禁としたのですが、うっかりなのかどうなのか後日に襄は八重に話しており、襄が12杯、猪一郎が11杯平らげて襄の勝ちだった、と語っています。
さて、どっちの証言が正しいのでしょうね?

寝覚の床
▲寝覚の床

さらにこの蕎麦大食い競争、続いて軽井沢でも行われています。さすがにこのときは支払いの賭けはしなかったそうです。

そうこうしながら1週間後、襄たちは襄の故郷である群馬県安中に辿りつきました。ここで八重と合流します。八重は襄とは別行動で出発し、横井時雄の妻となったみねを連れて、神戸から海路にて横浜へ渡って安中を目指し、先に到着していました。
襄は明治11年(1878年)に一度帰郷しており、そのおりに安中教会を発足させています。八重が安中を訪ねるのはもちろん初めてのことでした。
襄夫妻は私設図書館・便覧舎を開設した湯浅治郎邸に1週間ほど滞在。猪一郎たちは山田屋に宿泊しました。
滞在中は幾度か集会を持ち、キリスト教伝道にいそしんだそうです。

八重と襄、会津へ向かう

安中を出発した襄と八重、横井時雄夫妻は猪一郎たちと別れ、馬車で高崎を経由して会津若松へ足を延ばしました。途中で日光を見物し、7月末、郷里の会津に入りますが、白河越えの峠道の険しさは病弱な襄にはちょっと堪えたようです。
ドタパタドタパタ馬ニ引カレテ若松ニ参ル、ソノ堪忍(かんにん)御了察(ごりょうさつ)アレ」と猪一郎宛ての手紙で明かしていたり…

ようやく若松の城下に入った一行、当時会津若松で最大の規模を誇った3階建ての旅館、清水屋旅館に宿をとりました。この宿は新選組の副長だった土方歳三や吉田松陰が逗留した宿としても知られていますが、現在は廃業し、跡地は銀行の支店となっています。

清水屋旅館跡
▲清水屋旅館跡

十数年ぶりの里帰りとなった八重は父・権八の墓参りをし、襄もまた取り壊されてしまった鶴ヶ城の跡地を見学。まだまだ大きく残る戊辰戦争の爪痕を目の当たりにします。八重が暮らしていた会津若松の城下、米代四ノ丁も戦災で焼失し、田畑へと変貌していました。

8月になると襄は八重とみねを会津に残して、米沢へと向かいます。米沢では甘粕三郎(あまかすさぶろう)宅を訪ねて、米沢の風俗などを調査しました。三郎の兄の鷲郎(しゅうろう)が大阪外国語学校の教師だったことが、三郎と襄の繋がりとなったのだと想像されます。

米沢から再び会津へ戻って来た襄は八重と合流して東京へ戻りました。これにてふたりの帰郷の旅が終わったわけです。

同志社英学校から明治専門学校へ

大学設立運動

その年の終わりごろ、襄はかねてからの念願だった同志社英学校の大学への昇格に動き始めます。「同志社大学設立之主意之骨案」を執筆し、大学設立のための準備に取り掛かりましたが、民間の力で大学を設置することはなかなか難しいことでした。

同志社英学校はいわば私塾でした。卒業しても大卒ではありませんし、そもそもきっちり卒業する生徒数が非常に少数でした。退学者が圧倒的に多かったのです。さらに入学できる年齢もまちまちだったりと、大学として満たされるべき基準に達しているとは言い難いものだったのです。
やたら多い退学者。その大きな理由の一つが徴兵制度でした。徴兵は官営学校に対しては免除特権がありましたが、私塾である同志社にそれは適用されなかったのです。それゆえ、せっかく入学しても兵隊に行ってしまうため退学、よって卒業生減少…という悪循環に陥っていました。この環を断つためにも、大学認可は襄の悲願となっていたのです。

大学の設立にはまず資金が必要。
幸いにも「大和の山林王」と呼ばれていた林業家土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)が法学部創設にと5,000円(現在の約1億円)の現金の寄付を申し出たのです。土倉は学問に対して理解があり、自由民権運動に対しても協力を惜しまない人物でした。

とはいえ、5,000円では実際まだ足りず、襄は寄付金を30,000円に増額してくれるよう土倉に頼みに奈良まで足を運んでいますが、さすがに6倍の増額は無理だと断られています。

土倉庄三郎
▲土倉庄三郎

明治17年(1884年)、大学設立のための発起人会を持った襄は、設立する大学名を「同志社大学」ではなく明治専門学校と制定します。
これまで培ってきた同志社の名を捨てて、あえて元号である明治を名乗ったのは、やはりというか京都市民によるキリスト教への猜疑の目でした。

キリスト教へのまなざしの厳しさは同志社英学校設立時のころだけにとどまる事はなく、この頃においても同様に冷たいままだったのです。
大学設立のためには何をおいてもまず資金です。7万円の募金目標を立てたものの、これは明らかに財界の支援を得ないと達成不可な数値。そこでキリスト教に冷ややかな目を送る財界からも資金調達するべく、新設する校名の斬新な変更を試みたのでした。

当然この動きに宣教師たちは猛反発します。襄は財界に心を売ったのかと非難されますが、それでも襄は名を捨てて実を採るスタンスを貫いたのです。


画像引用:同志社女子大学(http://www.dwc.doshisha.ac.jp/about/records/publication/
125_years/chapter1_4.html)、
上松町観光協会(http://www.town.agematsu.nagano.jp/kankou/view/
sansaku/nezamenotoko.html)、
会津若松観光物産協会(http://www.aizukanko.com/spot/209/)、
国立国会図書館(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/445_1.html)
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