home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

襄は外遊先スイスで重篤に陥り、遺書をしたためています。
翌年の明治18年には同志社女学校と山本覚馬の身辺に不穏な事件が…

襄の欧米外遊と八重の明治18年事件

襄の二度目の欧米外遊

重篤に陥る襄

明治17年(1884年)、大学設立と資金集めに奔走する襄でしたが、多忙と無理が続いたため、周囲に休養を勧告されます。襄もまた思うところがあり、1年半に渡る休暇を取得することにしました。その間は大学設立運動は一時休止し、資金集めに集中しようと考えたわけです。資金調達のアテはアメリカン・ボードでした。
襄の留守中の同志社の学長職は覚馬が務めています。また国内での大学設立のための資金集めは襄の義理の甥(新島民治の養子)にあたる新島公義が代行しましたが、若年ゆえ大きな成果は挙げられませんでした。

まず襄は欧州へ渡りました。しばらくイタリアで過ごし、北上してスイスに入ります。アルプス越えをする最中のこと、元来身体が丈夫でなかった襄は、峠越えで呼吸困難に陥ってしまいました。

そこはサンゴタール峠(ゴッタルド峠・Sankt Gotthard)と呼ばれる標高2,000m超の高所にある難所。現在でこそ長大な鉄道や道路トンネルが完成していますが、その当時はまだトンネルなどなく、えっちらおっちら人力で越えなくてはいけなかったのです。

峠の悪魔の橋
▲峠の悪魔の橋(Teufelsbrücke)

文字通り息絶え絶えで宿に到着した襄は、医者もいない村の宿のベッドで死を覚悟します。ブランデーを一匙飲んで、カラシの軟膏を胸と首に塗り、所持していたスケッチブックに英文で遺書をしたためるほどでした。埋葬はミラノに、遺書はボストンのハーディーに届けるよう書き残しています。
幸いにもそれ以上体調が悪化することはなく、襄はなんとか50kmほど移動して医師のいるルツェルン(Luzern)まで出てくることができました。診察を受けたところ、心臓に問題があるとの診断をされ、2週間ほど安静を命じられています。

Albergo San Gottardo
▲Albergo San Gottardo

襄が遺書をしたためた宿は、サンゴタール峠に当時ひとつしかなかったホテル「Hotel du Mont Prosa」で、ピアッツァ湖(Lago della Piazza)のほとりに位置しており、現在は改称して「Albergo San Gottardo」の名で営業しています。

その後、世界最古の登山電車であるフィッツナウ・リギ鉄道(The Vitznau-Rigi Railway)で、アルプスの御来光が眺められるリギクルム(Rigi-Kulm)山に登るなどしつつ、さらにドイツやイギリスを経由して、襄はおおよそ10年ぶりにアメリカに渡りました。

訪米の成果

ニューヨークからボストンに進み、ハーディーとの懐かしの面会を果たした襄は、オハイオ州コロンバス(Columbus)で開催されたアメリカン・ボードの年会に参加。大学設立のための書簡を作成しています。
次いで亡くなったテイラー船長の未亡人宅を訪問したり、メアリー・エリザベス・ヒドゥンにも再会しました。

その後、アンドーヴァーに戻った襄でしたが、リューマチの悪化などもあり、ハーディー家で養生のあと、オンタリオ湖からほど近いニューヨーク州のクリフトン・スプリングス(Clifton Springs)という村で静養しています。3カ月ほどの静養ののち、ワシントンやニューヨークなどで日本での伝道についての訴えを続け、その奮戦の結果なんと50,000ドル(現在の約10億円)もの援助金をアメリカン・ボードから得ることができていたのです。資金調達の目的は見事に達せられました。
(下地図の水色ピンがクリフトン・スプリングス、赤色ピンがアンドーヴァー)

帰国前に襄はもらった餞別で八重にスコットランド製のショール、父の民治に帽子を購入し、5万ドルの大きな手土産とともに、明治18年(1885年)12月京都へ戻ってきました。
が、襄が海外に出ている間に、京都ではさまざまな問題が発生していたのです。

明治18年事件

時榮の不倫

襄が外遊中の明治18年(1885年)5月、覚馬と時榮夫妻は洗礼を受けました。
しかしそののち、時榮が体調を崩してしまいます。心配した覚馬が医者を呼んで診察を受けさせたところ、医師の口から思わぬ言葉が飛び出したのでした。「おめでとうございます」と。
覚馬は当惑します。妊娠?そんなはずはないのだが…
話を聞いた八重は激昂。最初こそ身に覚えはないとか、夕涼みしていてうたた寝しているときに見知らぬ男に辱められたとか語っていた時榮でしたが、観念して一切を白状したのです。

当時、山本家には会津の武家から婿養子にするつもりで招いていた男子が寄宿していました。年は18。名前は判っていません。
自責の杖事件を主導した徳富健次郎(蘆花)がのちのち執筆した黒い眼と茶色の目という、自身を反映させた小説でこの事件について触れられているのですが、なにぶんそれ以外の資料がないためです。「黒い眼と茶色の目」では本名をもじったであろう秋月隆四郎という名で記されています。

徳富健次郎(蘆花)
▲徳富健次郎(蘆花)

それゆえに事件そのものの信憑性も定かではないのですが、「黒い眼と茶色の目」によれば、時榮がその男子を誘惑して不倫に走ってしまった旨を自白し、許しを乞うています。
これまでの献身的な時榮の働きを思うとその行状を責める気になれない覚馬は、全てを許そうとしました。

しかし、怒り冷めやらない八重は今治に住むみねに状況を知らせ、やはりびっくりしてすぐさま上洛してきたみねと一緒になって時榮を断罪します。どんな理由があろうと不倫などあってはならない、ならぬことはならぬというわけです。
結果、八重が時榮を家から追い出す形となり、翌年2月には覚馬夫妻の離婚が成立。婿養子になるはずだった男子も同志社を去って郷里に戻る羽目になりました。八重は時榮が子の久榮と会うことも固く禁じたといいます。

明治18年事件

そして面倒な不倫騒動のさなか、同志社女学校でかねてから沸々としていた問題がいよいよ爆発してしまいます。

もともと女学校は八重・生徒側と宣教師側で対立が続いていました。スタークウェザーを追いだし帰国させ、その代償としてさくが舎監を辞するまでになっただけでは終わらず、スタークウェザーの交代要員であるフランシス・フーパー(Frances Hooper)宣教師もまた日米間の価値感の相違に板挟みになっていたのです。

しかも「全く新しい了解の下で、すなわち女性宣教師が学校の唯一のヘッドであり、日本人も女学校とはそういうものと認識して、学校を編成し直す」という双方で交わされた取り決めは、日本側に一切顧みられることがありませんでした。

これに業を煮やしたのがアメリカン・ボードです。もうこれ以上同志社に協力はできないという意識決定がなされ、同志社女学校から宣教師を引き上げ、女学校は休校とするとの通達を送りつけたのでした。これを明治18年事件と呼んでいます。
そのころ日本は自由民権運動の集大成として議会政治が芽吹こうとしていました。その年の末に初代内閣が組閣されています。当時の日本はまだようやく民主主義の第一歩を踏み出したばかりで、旧来の思想が根強く残っていたのです。同志社女学校の明治18年事件もまた、旧思想と新思想のぶつかりあいのようなものでした。

1885年(明治18年)伊藤博文初代内閣総理大臣就任

明治18年事件の顛末

この決定は欧米外遊中の襄にも伝えられましたが、いかんせん遠い異国の地からでは何をすることもできません。
また残される側となった女学校の関係者たちは、臨時校長である覚馬に今後の突破口を求めて嘆願書を出すなど、大いに動揺したといいます。

とはいえ視点を変えれば、外国人の手を離れて日本人だけで学校を再興できるチャンスとも考えられるわけです。
そうは言っても、アメリカン・ボードが手を引いてしまえば、女学校には資金もなければ教師もいない状況。どこかで妥協点を見出さねばなりません。

同志社関係者は躍起になって、資金と教師、この2つの問題を解決すべく奔走しました。大澤善助を中心に募金を集め、教師においても日光で休暇を過ごしていたフーパーに復職依頼の手紙を出しました。
おまけに神戸英和女学校(現・神戸女学院)の校長を務め、一時帰国していたヴァージニア. A.クラークソン(Virginia Alzade Clarkson) の再来日の日に合わせて横浜まで校長就任を嘆願しに出向くほどに、なりふり構わぬ状況だったのです。

ヴァージニア. A.クラークソン
▲ヴァージニア. A.クラークソン(写真:同志社大学蔵)

クラークソンは就任の条件として、「責任を完全にクラークソンがもつこと」「同僚が一人必要であること」そして「襄の了承を得ること」を提示します。
同志社はそれを受け入れ、経費の分担に関しては同志社が「経常費と日本人教師の給料、屋内の修繕費用」を分担し、アメリカン・ボード側が「燃料費、設備費、税金、宣教師派遣費用」を支払うことで決着し、アメリカン・ボードは同志社女学校の休校通知を取り消しました。


画像引用:wikipedia/Chris 73(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%
A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Teufelsbr%C3%BCcke01.jpg)、
princeline.com(http://www.priceline.com/albergo-san-gottardo-airolo-ticino-4618649-
hd.hotel-reviews-hotel-guides?plf=PCLN&irefid=PLTGMERCH&irefclickid
=AIROLOSWITZERLAND)
同志社大学(http://www.dwc.doshisha.ac.jp/about/records/publication/125_years/
chapter1_1.html)
順番に読む