home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

東北地方でのキリスト教教育の拠点となる東華学校が仙台に開校。
襄は八重とともに開校式典のため仙台入りします

八重と襄の仙台・北海道の旅

久榮と徳富健次郎の恋

久榮と徳富健次郎の恋

明治13年(1880年)に起きた自責の杖事件を主導し、同志社を退学した徳富健次郎(蘆花)は郷里・熊本に戻っていました。兄である猪一郎(蘇峰)と仲違いするようになったこともあり、健次郎の両親は彼の身柄を今治の横井時雄に預けます。時雄の教会でともに伝道活動に励む健次郎でしたが、時雄が襄に招かれて同志社で教鞭を執ることとなったため、時雄ともども健次郎も上洛することになりました。

そんないきさつで、健次郎は一度退学した同志社に復学することになります。明治19年(1886年)9月のことでした。
3年生からの復学となった健次郎が居候していた時雄の家には、時雄の妻・みねの異母妹にあたる久榮がちょくちょく顔を出していました。久榮もまた同志社女学校に通っており、当時は4年生だったのです。
健次郎による久榮の第一印象ははすっぱな礼儀知らずな女というとんでもないものでしたが、それでも顔を合わせるうちに、近しい存在になっていきます。

山本久榮
▲山本久榮(「蘆花の青春」河野仁昭著)

ふたりは相思相愛になりやがて結ばれました…となればいいのですが、ありがちながらも第3の男が闖入してきます。健次郎の親戚にあたる竹崎土平という男が、やはり熊本から上洛して同志社予備校に入学し、時雄の家に厄介になりにきていたのです。
そして案の定、土平は久榮に恋心を抱き、果敢にもアタック。しかし久榮の返事はNOでした。健次郎を好いているので…との理由も含めて、土平は馬鹿正直にも健次郎に全てを話してしまうのです。

突如現れたライバルをまんまと蹴落とした…! 勝利の優越感もあったのでしょう、健次郎は久榮と急接近し、ついに結婚の約束まで交わしてしまいます。
ところが、久榮と健次郎のカップルを祝福する人間は、覚馬とさくだけでした。時雄は義理の妹である久榮と健次郎の恋愛に首を縦に振りません。久榮は女学校で起きた盗難事件の容疑者になるなど、良き妻になる素質の女ではないという理由だったといいます。時雄は久榮との交際を「爆裂弾を抱いて走る様なもンで、恐ろしい女」と評したとも言われています。襄もまた二人の恋愛に否定的でした。

あげくに土平がいらぬ知恵を入れてきます。
「祝福されない結婚などすべきではない、婚約解消すべきだ。というか、勝手ながら久榮に破談を伝えておいた
これには健次郎もびっくり。どうせ結婚できぬならば婚約破棄は自分で伝える!と激怒します。健次郎は南禅寺(京都市左京区の臨済宗の寺院)に久榮を呼び出し、そこで告白する段取りをとりますが、健次郎の行動を察知した時雄に先回りされて、こっぴどく叱られてしまいました。

南禅寺
▲南禅寺(京都府京都市左京区南禅寺福地町86)

自棄になる健次郎

久榮と話すチャンスを失った健次郎は、付き合うでも別れるでもない関係をしばらくずるずると続けていましたが、ある日思い切って久榮に別れの手紙を書きます。久榮からすれば突然の婚約解消通知なわけで、当然受け入れられないと返信しますが、いかんせん二人の行動は全て襄と八重に筒抜けでした。久榮あての郵便は全て八重たちが目を通していたのです。

もうこうなれば京都にいても仕方ない、そう考えた健次郎は最後に一度久榮と会っておこうと女学校の寮を訪ねました。
しかしそこに現れたのは久榮ではなく八重。
「二人きりで会わせるわけにはいきません。どうしてもと言うなら自宅まで足を運んでください。久榮を連れて帰りますから」
そう八重に畳みかけられ、健次郎は新島邸に急行します。

応接室で待つ健次郎。やがて久榮が入室しましたが、そこには襄と八重の姿が。健次郎は襄と八重に席を外して久榮とふたりきりにしてくれるよう申し出ますが、襄は許しません。
健次郎は「この状況では話せません」と食い下がるも、
「ではお会わせすることはできません」と襄。
売り言葉に買い言葉で「じゃあ会わなくていいです!」
「ではお帰りください」
結局健次郎はなにも話さずに出て行ってしまったのです。

なんともグダグダな展開ですが、こうなった以上は京都どころか兄の猪一郎のいる東京にも行けない、西のどこかへ行くしかないと健次郎は決心します。襄の諌めも耳に入ることはありません。
自棄になった猪一郎は同志社を、そして京都を去ってしまうのでした。襄は「青年一人度す(言い聞かせる)ことが出来ぬ」と涙を流したそうです。

八重と襄、仙台・北海道へ

積極的に動く襄

大学設立に動く襄でしたが、単科大学(college)を想定していたわけではありません。目標は総合大学(university)でした。当時、総合大学と呼べるものはまだ官営の帝国大学(現・東京大学)しかなかったのです。
特に襄がこだわったのは医学の分野でした。病院と看護師の育成の場を設けるべく同志社病院京都看病婦学校の建設に着手しました。
開校に先立って明治19年(1886年)9月には旧宣教師館を診療所兼看護婦学校として使用し、リンダ・リチャーズ(Melinda Ann Judson Richards)を学校長に迎え先行開校します。

さらに地方教育にも襄は力を入れます。同志社の分校を設立しようと、仙台に足を運び、明治19年(1886年)10月に宮城英学校を開校。翌年6月、東華学校(とうかがっこう)と改称されます。

東華学校遺址碑
▲東華学校遺址碑(宮城県仙台市若林区五橋3-4-12)

ちょうどそのころ、明治20年(1887年)1月、襄の父・民治が亡くなりました。不幸は続くもので長男・平馬を出産したみねも産後の回復が悪く息を引き取ってしまいます。

襄と八重、仙台・北海道へ

明治20年(1887年)初夏、襄は八重を伴って東征します。横浜まで共に行き、一度横浜で別行動をとったふたり。その際に八重は東京の松平容保を訪ねますが、不在だったのか会うことは叶いませんでした。
再度八重は襄と合流し、仙台へ向かいます。
仙台では日本基督一致教会仙台教会(現・仙台東一番丁教会・宮城県仙台市青葉区一番町1-13-12)で襄が説教をし、その際に「耶蘇教ハ何ソト人問ハレタレハ答テ曰ハン、愛以貫之(キリスト教徒は何だと問われたら、愛をもって貫くことだと答えよう)」との言葉を残しています。

大正10年当時の仙台東一番丁教会
▲大正10年当時の仙台東一番丁教会

その後、襄と八重は東華学校の開校式に臨みました。襄は学校の初代校長になります。学校は一躍、仙台の中等教育の要となりましたが、世情の変化などもあり明治25年(1892年)宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)に吸収される形で廃校となってしまいます。

仙台を発ったふたりは、そのまま北海道へ。襄の思い出の地、函館に入ります。函館は襄が国禁を犯してまでも出国した場所。出国の手助けをしてくれた福士成豊に会うべく、彼が勤めていたポーター商会へ向かいました。しかし会社は倒産していたのです。
聞けば成豊は慶応2年(1866年)にはポーター商会を退職し、気象観測や測量に従事していたのだそうで、襄が訪ねた頃は北海道庁で20万分の一地形図の作成に取り掛かっていた時期なのでした。
それなら札幌に行こうじゃないかと、襄と八重は札幌入りし、成豊の自邸で23年ぶりの再会を果たします。

八重もまた札幌で懐かしい顔との対面を果たしていました。
会津時代の幼馴染で、鶴ヶ城籠城戦のときに入城できず郊外に逃げていた日向ユキです。ユキは戊辰戦争ののち、斗南藩に移り、その後札幌で暮らしていたのです。ユキは旧薩摩藩士・内藤兼備(ないとうかねとも)と結婚し、内藤姓になっていました。

八重と日向ユキ
▲新島八重(左)と内藤ユキ(右)

札幌では、札幌農学校でウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)に教えを受け、卒業後に農学校予科教員となった大島正健(おおしままさたけ)とも会っています。正健には子の正満(まさみつ)がおり、子供を持たなかった八重と襄は正満を満坊と呼んで大いに可愛がったのだそうです。

心地よい気候の夏の北海道での避暑を正満と遊んでのんびり過ごしていた八重と襄に、またも悲報が飛び込んできます。
襄のアメリカ時代の恩人であるアルフュース・ハーディーが不慮の事故で危篤に陥ったという報せが届いたのです。電報をボストンから送ったのは新島邸(新島旧居)の建設資金を寄付してくれた友人のヨシュア・モンゴメリ・シアーズでした。
ハーディーは逝去し、襄はそのショックで寝込んでしまいました。


画像引用:「蘆花の青春」河野仁昭著 恒文社、
仙台商工会議所(http://burasen.jp/item.php?id=180)、
日本基督教団仙台東一番丁教会(http://st.cat-v.ne.jp/church.office/history.html)、
「会津戊辰戦争史料集」宮崎十三八編 新人物往来社
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