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同志社を大学にするために奔走する襄にとうとう異変が。
襄の余命宣告を受けた八重は鬼の三島総督へ変貌し…

八重の三島総監看護と襄の余命宣告

襄の余命宣告

大学設立運動と襄の余命宣告

明治20年(1887年)秋、かねてから建設していた同志社病院と京都看病婦学校(きょうとかんびょうふがっこう)が完成しました。看病婦とは現在の看護師のことで、ここは日本で二番目の看護学校の開校になります。
病院と学校は明治39年(1906年)までは同志社の経営下での運営が続き、それ以降は病院長となった医師佐伯理一郎(さえきりいちろう)が引き継いで京都看護婦学校と改名し、昭和26年(1951年)の閉校まで存続しました。

京都看病婦学校
▲京都看病婦学校

襄の欧米外遊などで一時期停滞していた大学設立運動は、この時期になると再び息を吹き返してきました。
以前の設立運動時に較べると世間の風潮も変化し、同志社に追い風となるような環境が整っていたことも幸いします。

なによりもまず、内閣制度が始まり、初代文部大臣(現・文部科学大臣)に森有礼が就任したことが挙げられます。有礼は襄がアメリカ留学中に旅券と留学免許状の発給を斡旋した人物。本人もまたキリスト教に理解があり、同志社の大学昇格に反対することもありませんでした。同様に初代外務大臣の井上馨(いのうえかおる)も同志社に好意的でした。

さらに相当強かった京都市民のキリスト教への反発もここにきて緩んできます。明治14年(1881年)に知事を辞任した槙村正直のあとを受けて知事職に就任していた北垣国道(きたがきくにみち)は、琵琶湖疎水建設、京都商工会議所創設など京都の発展に尽力しつつ、娘の静子、とくを同志社に入学させています。

北垣国道
▲北垣国道

そんな中の明治21年(1888年)4月。
襄は浄土宗総本山知恩院(ちおんいん)の大広間を借りて演説会を実施しました。大学設立を訴えるその会に、京都の名士がなんと650人も集まったそうです。
さらにその10日後には、井上馨邸でも政財界の有力者を招いて、大学設立の支援を求めています。
しかし襄はその折に脳貧血を起こして倒れてしまいました。スイスで心臓の病気を医師に指摘されていたものの、当時の医療水準では改善もならず、襄の身体はそれ以降じわじわと蝕まれていたのです。
それもこれが初めてではありません。その年の正月にも襄は新年の挨拶を行うために新島邸から同志社へ向かいましたが、道中で気分が悪くなり、おまけに校内でも倒れてしまったため帰宅しています。

知恩院
▲知恩院(京都府京都市東山区林下町400)

これはいかんと、襄は東京大学のお雇い外国人であったドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)の診察を受けようと森有礼に紹介を依頼します。また、日本赤十字社病院長であった橋本綱常(はしもとつなつね)の診察も受けており、橋本は「診甚悪シ」と診断。
そしてベルツもまた心臓に問題があり、余命わずかだと診断したのでした。

大学設立の資金集めのために3度目の訪米を予定していた襄でしたが、さすがにドクターストップがかかります。
襄がまず考えたのは八重のことでした。自分の死後、八重が生活に困るようではいけないと、「大和の山林王」と呼ばれていた林業家土倉庄三郎に手紙を書きます。それは手持ちの300円(現在の600万円)を植林に出資するので、いずれ利益を八重に分配してほしいというものでした。また手紙の中で襄は「寧ろ戦地にありて一歩も退かざるは平素戦士の心得たるべし」と命を削っても大学設立に賭ける意気込みを綴っています。

八重の豹変

襄の体調を第一に気遣っていた八重ですから、さすがに最近の襄の不調がただごとではないと勘づきます。
襄は鎌倉のサナトリウム・保養所海浜院で療養に入り、6月には八重も鎌倉入りして毎日朝夕浜辺を二人で散歩したりして過ごしました。

そして7月初頭、八重もまた医師の難波一から襄がいつ亡くなってもおかしくない状態だと告知されたのです。
襄の余命宣告を受けた八重は大いに動揺しました。
「其夜より夜半幾度か亡き愛夫の寝息を伺いて油断なく看護に怠らざりし」と八重は後述しており、何をおいても襄の体調をしっかり管理せねばと肝に銘じたのです。

襄は襄で八重の体調を心配し、1週間後に再度ベルツの診断を受けた際に、自分の病状そっちのけで八重をダイエットさせるにはどうすればいいかという質問をしていたり…。そう、八重はずんぐりした体型だったのです。

明治21年当時の新島八重
▲明治21年(1888年)当時の新島八重(写真:同志社大学蔵)

そんなこんなで、八重は襄が無理をしないよう、「監視」するかのように厳しく見張りました。まるで警官のように自分にくっついて目を光らせているのだと、襄はハーディ夫人への手紙にも記しています。
そしてなによりも八重が気にしたのは、襄の手紙でした。なにせ襄は筆まめで、四六時中延々手紙を書いているような男。襄が手紙を書いているとすぐに止めさせたのです。

これはたまらぬと、襄は八重に外出の用事を言いつけて、その留守中に手紙を書くなどというワザまで駆使します。ところが、何かおかしいと感づいた八重に見破られ、やはり手紙を取り上げられる始末でした。
そんな具合でしたから、襄は八重のことを三島総監と呼んだのだそうです。

三島とは、住民の反対を押し切って強引に土木工事を進めた手腕から「土木県令」や「鬼県令」と揶揄されていた警視総監・三島通庸(みしまみちつね)のこと。山形県令(現・県知事)や福島県令時代の三島は、インフラ整備を重点的に実施しましたが、そのためならば手段は問わないとばかりの弾圧まで実施した人物でした。
八重の有無を言わせぬ取り締まりがまるで、三島通庸の専制のようだったのかもしれませんね。

三島通庸
▲三島通庸

同じ7月、襄は2代外務大臣大隈重信(おおくましげのぶ)の大臣官邸での募金集会に臨みます。大隈や井上馨をはじめとして、渋沢栄一、岩崎弥之助、大倉喜八郎、原六郎たち財界人から総額で31,000円の寄付の確約を得ることができました。

明治20年(1887年)に言論団体「民友社」を設立して、月刊誌国民之友を主宰した徳富猪一郎とは、襄の安中里帰り以降も交流を続けていました。
猪一郎は襄に対して、設立する大学名を「明治専門学校」から同志社大学に戻すよう進言します。もともとキリスト教色を消すために明治の名を使ったのですから、キリスト教への目が和らいできた昨今となっては同志社の名前でも問題はないわけです。襄は進言に賛成し、猪一郎に同志社大学設立の旨意の文面作成を依頼しました。

明治21年(1888年)11月、襄は20以上の新聞や雑誌に同志社大学設立の旨意を掲載します。内容は前半がこれまでの同志社開設の経緯、後半が大学を必要とする理由と、大学のありかたを論じたもの。
これが大きな反響を呼び、同志社大学設立への気運がますます高まりました。

翌月には神戸に仮住まいを移します。襄は神戸でさらに療養を続けつつも、伝道活動や資金集めに注力しました。仮住まいは翌年の3月末まで続き、2月には札幌の内藤兼備・ユキ夫妻に「健康状態が良くなって来た」と手紙をしたためています。


画像引用:「新島襄生誕150年記念写真集 新島襄―時代と生涯―」、
同志社大学(http://www.dwc.doshisha.ac.jp/yae/profile/gallery.html)
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