home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

大学設立資金をかき集めるために関東へ赴く襄
しかし襄の身体には限界がきていました…

襄の死とその後の八重

襄の最期

八重の和解

明治22年(1889年)、有力な寄付の申し出がありました。アメリカ・コネティカット州の実業家でのちにニューロンドン市の市長となったジョナサン・N・ハリス(Jonathan N. Harris)から、理化学校設立のための通算10万ドル(現在の20億円)に及ぶ莫大な額の寄付でした。
襄はこの寄付を基に、ハリス理化学校の建設に着手します。これは現在の同志社大学工学部の前身となっています。

ハリス理化学館
▲明治23年(1890年)に完成したハリス理化学館

8月には母校のアーモスト大学から襄は名誉法学博士号(LL・D)を授与されることになりました。しかし襄には名誉欲などかけらもありません。最初は辞退しようと考えたそうです。それでも周囲の説得もあり、ありがたく受けることに決めました。襄はLL・DとはLame Lazy Dog(足が不自由な怠けものの犬)のことだと冗談めかして話しています。

秋になりました。
さらなる設立資金募集の演説を行おうと、襄は関東周遊に旅立ちます。いつもなら八重も一緒に行くのですが、折悪く襄の母・とみが臥せっていました。襄はとみの介護を八重に託して単身で出発したのです。襄自身の体調が良くないことは、本人も良く分かっていました。
そして関東遊説の途中である群馬県前橋。11月も末のことです。M.H.シェッド宣教師の宅で夕食を食べたのちに襄は腹部に不調を訴え、そのまま前橋で療養に入ります。医師の診断は胃腸カタル。襄からの報せを受けた八重はすぐにでも前橋へ急行したく考えますが、襄はとみの介護に専念してほしいと頼み、八重はやむなく京都で経過を待ちます。

そんな折、八重は自邸で恒例のかるた大会を行います。ただいつものかるた大会とは趣が異なりました。普段は旧会津藩出身の生徒たちを中心に招いていましたが、今回初めて薩摩出身の者を招いたのです。薩摩といえば会津戦争で八重がスペンサー銃片手に戦った宿敵。八重の心の底にはずっと薩摩への敵愾心がくすぶっていたのですが、ここにきて過去を赦し、薩摩の人間をも良き隣人として対峙するに変化したのでした。
この和解の報せを手紙で受け取った襄は、「すべての人を愛せよ」を実行する人ゆえ、これを我がことのように喜んだといいます。

襄の最期

翌12月、体調が回復しないまま、襄は湯たんぽを抱えて東京へ移りました。状況を見かねた徳富猪一郎(蘇峰)が神奈川県大磯町での転地療養を勧め、襄は大磯海岸の百足屋 (むかでや) 旅館別館の愛松園で年を越すことにします。
年が明けて明治23年(1890年)の正月は手紙を書いたり、詩を作ったりして過ごしました。

石金(いしかね)も透(とほ)れかしとてひと筋に 射る矢にこむる大丈夫(ますらを)の意地

ところが1月12日、またも襄は激しい腹痛に襲われます。医師の診察を受けてみれば、診断は腹膜炎。医師の声は重く、最期を覚悟して欲しいと告げられたものの、襄は京都へ知らせようとはしません。そうこうするうちにどんどん容体は悪化。もうこれが峠かと見た周囲の者が、八重に危篤の電報を打つありさまでした。

とうとうこの日が来てしまった…
急いで京都から駆けつけた八重の顔を見て、襄は喜びますが、襄のその姿は憔悴の極みでした。死を悟った襄は枕元の八重、小崎弘道、徳富猪一郎立会いのもと、遺言を伝えます。その量は30枚にも及ぶ長いものでした。
そして1月23日午後2時20分、襄は急性腹膜炎で死去しました。46歳11カ月という決して長いとは言えない生涯、その臨終の間際に襄は八重の手を取って「グッドバイ、また会わん」と告げたそうです。

新島襄終焉の地碑
▲新島襄終焉の地碑・百足屋跡地(神奈川県大磯町大磯1104)

八重のもうひとつの和解

襄の臨終の枕元、そばにいた徳富猪一郎が八重に話しかけました。
「私は同志社以来、貴女(あなた)に対しては寔(まこと)に済まなかった。併(しか)し新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私に交(つきあ)つて下さい。」
かつて八重を(ぬえ)と呼んだ彼からの和解の言葉を、八重は快く受け入れます。

襄の亡骸は列車で京都に運ばれました。翌24日未明、京都の七条駅に入った列車を600名もの同志社関係者が出迎え、ともに自邸に向かいます。
襄は遺言で簡素な葬儀と墓を希望していましたが、27日に行われた葬儀には4,000人もの参列者がチャペルに集いました。

襄の父・民治と同じ南禅寺の墓地に埋葬されるはずだった亡骸でしたが、寺側がキリスト教式の埋葬を拒絶したため、急遽左京区若王子の共同墓地に場所を変更。木製の墓標が立てられましたが、翌年、勝海舟の筆による鞍馬石の墓石に立て替えられました。共同墓地のうち襄の墓の周囲は同志社が占有を許され、のちの同志社墓地となります。

新島襄墓
▲新島襄の墓(京都府京都市左京区鹿ケ谷若王子山町)

その後の八重

八重、赤十字社員になる

襄の死後、八重は新島邸でひとり暮らすことになります。2月からは襄の闘病の記録を書き始め、同志社との交流も絶えるわけではありませんでしたが、自然と距離を置くようになりました。
襄がその学才に注目し、同志社で学ぶことを勧めた苦学生の深井英五(ふかいえいご)は襄から手渡しで奨学金をもらいながら学業に励んでいました。しかし、襄が死んでしまっては奨学金もままならない状況になってしまう…そう考えた彼は、八重のもとを訪ねます。いわば金の無心の訪問だったとはいえ、八重は「そのことは襄から聞いています。今後は私から毎月渡します」と優しく答え、同志社の生徒は我が子同然という姿勢は以降も変わりませんでした。
ふだん、八重は襄が愛した庭先の梅の木を眺めてぼんやり過ごすことも多かったといいます。

深井英五は抜群の成績で同志社を卒業後、徳富猪一郎(蘇峰)の主宰する國民新聞社に入り、そののち、日本銀行に入行。日銀総裁にまで登りつめています。

春になりました。
八重は日本赤十字社の正社員となります。日本赤十字社は西南戦争の折の救護団体として明治10年(1877年)に創設された博愛社を前身としており、政府がジュネーブ条約に加入後、明治20年(1887年)に日本赤十字社と改称していました。
なお、日本赤十字社の正社員とは常勤従業員という意味ではなく、当時、年間で3円以上12円以下の金銭を赤十字社に納める者、または一度にもしくは数度に分けて200円以上を納める者のことを指します。

正会員認定証
▲日本赤十字社正会員認定証(明治35年(1902年)のもの)

3年後の明治26年(1893年)に日本赤十字社京都支部内に篤志看護婦人会が設立されると、八重はいよいよ寄付だけでは気が済まぬと、婦人会に入会し、看護活動に進んでいきます。

かたや同志社大学は襄の死後、一時的に覚馬が臨時の総長に就任していました。
明治23年(1890年)9月にはかねてより建設していたハリス理化学校が完成。2年後、小崎弘道が総長職を引き受けたため、覚馬は退任しますが、その年の末、覚馬も64歳で世を去ってしまうのでした。
またその翌年には覚馬の娘の久榮も若くして神経衰弱で命を落としています。


画像引用:wikipedia/NORITO,S(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%
E3%82%A4%E3%83%AB:Doshisha-Harris.JPG)、
公益社団法人 大磯町観光協会(http://www.oiso-kankou.or.jp/entry.html?id=20530)、
福島県観光交流局観光交流課(http://www.yae-mottoshiritai.jp/hokori/jou-ohaka.html
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