home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

八重と襄は婚約。そして襄は目標だった同志社英学校の開校に向けて奮闘します。
しかしそこに立ちはだかったのは京都の象徴、仏教の壁でした。

八重の解雇と襄の同志社開校

仏教徒による反対運動

八重、解雇される

明治8年(1875年)10月。八重と襄が婚約したころ、襄はがむしゃらにキリスト教教育の学校「同志社」設立のために動いていました。土地は薩摩藩邸跡地を使うことが決まりましたが、校舎を建てねばなりません。今すぐにでも開校したいと願う襄は、校舎完成までの期間に限り仮校舎を使用することにしました。

仮校舎となったのはかつて畿内・近江の6カ国の大工を支配した御用大工棟梁の中井家の邸宅で、中井屋敷と呼ばれていました。
中井屋敷は藤原北家閑院流の公家・高松家の持ち物で、高松家は明治維新後に華族となります(堂上華族)。中井家から高松家に屋敷の所有が移った経歴はよくわかっていません。
華族と言っても台所事情は厳しいものだったため、高松保実(やすざね)は金策のためもあり新島家の旧主家の板倉家を通じてかねてより親交のあった襄に、所有していた屋敷の半分を貸し出すことに同意したのです。家賃は月15円。襄は3カ月分の家賃を前払いしました。
下の地図の黄色ピンの位置が中井屋敷。現在は新島旧邸が建っています。

あとは開校を待つばかり、と思えたのも束の間。非常に厄介な問題が持ち上がってきました。仏教界の反発です。
当時、キリスト教は解禁されたばかりでまだまだキリスト教への目は厳しいものがありました。しかも京都という場所柄、仏教徒には当然快く思われなかったのです。なおかつ同志社の位置が京都御苑のすぐ隣であり、京都五山のひとつである相国寺とも接した場所であることから、耶蘇の奇襲だとばかりに非難を受けることに。

そして講師として招き入れたアメリカン・ボードの宣教師ジェローム・ディーン・デイヴィスが京都入りすると反対運動はピークを迎えます。
その数12,000人ともいわれる僧侶たちが決起集会を開き、京都でキリスト教教育をしないよう京都府副知事の槇村正直(京都府大参事から明治8年7月に副知事に就任していました)に嘆願したのです。

槇村は襄のキリスト教教育の一定の理解を示していたものの、あまりの仏教界の反発の大きさに狼狽し、掌を返す行動に出ました。
まず、八重が女紅場を解雇されます。女紅場にキリストの教えを持ち込もうとする八重を警戒したものでした。この解雇に対して八重は涼しい顔で「これで福音の真理を学ぶ時間ができる」と答えたといいます。

続く圧力

さらに槇村は手をまわします。中井屋敷を所有する高松保実に対し、襄との賃貸契約解除を迫ったのです。
しかし保実は金銭的に困っていたこともあり、前払いしていた賃貸料を返すこともできず、襄は立ち退きをするには及びませんでした。

こんな調子ではかなわないと、襄は槇村に面会を求め、説得を開始します。その結果、学校で聖書は教えないこと、修身(道徳)の学習のための参照資料としてのみ聖書の使用を認めることを条件に話し合いは決着をみました。
しかし、これには講師として着任予定だった宣教師デイヴィスが激怒してしまいます。

ジェローム・ディーン・デイヴィス
▲ジェローム・ディーン・デイヴィス

無理もありません。キリスト教を教える学校で聖書を使うなというのですから。この決定により、他の宣教師は「アメリカン・ボードの金銭で建つ学校なのに、これでは話が違う」と講師になるのを拒みました。
そんななかで「右手を切り落とした方がましだ」とまで激昂したディヴィスだけが襄の考えを理解し、思いとどまったのです。
襄が考えるキリスト教教育とは、単にキリスト教を学ぶ学校ではなく、キリスト教精神をもって日本の将来の担い手を育成することでした。

同志社英学校開校

同志社のはじまり

そしていよいよ11月29日。満を持して同志社英学校が開校しました。英学校といっても英語を教える語学学校ではありません。いわゆる漢学以外の学問をまとめて英学とし、さまざまな分野の授業を行うものです。
課程は5年制で、授業料は月30銭(現在の価値で6,000円。のちに50銭となった)、寄宿生は月3円(現在の価値で6万円)とされました。中井屋敷が校舎と寄宿舎を兼ねています。

入学した生徒は8名。全員が男子でした。その半数はデイヴィスが神戸の私塾で教えていた生徒。対する教師は襄とディヴィスのふたり。小さな私塾のようなスタートですが、これが現在の同志社大学へ繋がるわけです。


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