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同志社英学校の開校で順風満帆に進む襄の夢…のはずでしたが、
熊本バンドの登場や京都府との折衝など問題が次々に発生します

八重と襄と熊本バンド

熊本バンドの同志社入学

熊本バンドの結成

そのころ、九州・熊本県に熊本洋学校という学校がありました。明治4年(1871年)に熊本藩の実権を握った実学党(じつがくとう)政権が創設したもので、西洋の学問を導入し、アメリカからリロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes)という陸軍の軍人を呼んで講師とします。

開校から3年後、ジェーンズは毎週土曜に自宅で希望する生徒に対して聖書を教えるようになりました。この参加者の中からキリスト教を信奉する生徒が続出し、明治9年(1876年)、生徒35名が熊本の花岡山(はなおかやま)で集会を開きます。そこで彼らは一致協力してキリスト教信仰を守り、キリスト教によって日本を導こうという奉教趣旨書に署名して誓約したのです。(花岡山事件)

熊本洋学校教師ジェーンズ邸
▲熊本洋学校教師ジェーンズ邸
(熊本市中央区水前寺公園22-16)

これが大きな波紋を呼びます。
当時の日本はまだキリスト教に対して寛容ではなく、保守勢力から大きな批判を浴びることになりました。
結果、熊本洋学校は廃校に。ジェーンズも解雇されてしまいます。行き場を失った生徒たちのためにジェーンズは襄に手紙を書き、生徒の受け入れを要望しました。
この生徒たちはのちに熊本バンドと呼ばれるようになります。バンドとはキリスト教を信仰し、その布教と教育活動をする結盟集団のことです。

新校舎の完成

かたや同志社英学校ですが、京都府と交わした約束に四苦八苦していました。その約束とは「学校内で聖書を教えないこと」。
やむをえず襄の邸宅を教室代わりにして、聖書の授業はそこで行うことで乗り切っていましたが、無断で宣教師が校内で聖書を開くことも多く、抜き打ちで検査に来た府の役人に見つかっては言い訳を考えるという状況だったのです。

そんなこんなの状態ながらも、明治9年(1876年)9月、薩摩藩邸跡に建設していた校舎が完成しました。この校舎は現在の同志社大学今出川校地になっています。
新校舎に移っても府との約束は有効のままでしたので、校舎の東向かいにあった豆腐屋の空き家を40円(現在の80万円)で購入して、私宅として教室利用をすることで聖書を教えていました。豆腐屋の教室は生徒からは「三十番教室」と呼ばれていました。

薩摩藩邸跡に完成した新校舎
▲薩摩藩邸跡に建った新校舎
(左から第二寮、食堂、第一寮。京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町601)

熊本バンドの入学

新校舎が完成した頃、熊本バンドの生徒たちが同志社にやってきました。その数なんと40名。
また、女子教育の充実を狙い、スタークウェザーが女子塾を正式にスタートします。生徒は寄宿生4名と通学生8名の計12名で、熊本バンドの生徒の姉妹も含まれていました。とはいえ、貧しい子女が多く、京都の市民から待望された開校とはなりませんでした。
女子塾には八重も協力し、スペリングや小笠原流の礼法を教えました。

熊本バンドを受け入れた同志社英学校は「余科」(神学科)を新設して、彼らの教育に邁進します…と言いたいところですが、襄と熊本バンドの関係は決して良好とは言えませんでした。
その理由は熊本バンドが求める教育レベルにあったのです。

熊本バンドとの対立

熊本バンドと同志社の対立

熊本バンドの面々は、熊本洋学校時代にジェーンズから英語で講義を受けていました。対して同志社で教鞭をとるデイヴィスは日本語での講義。しかも誤訳も多く、ある程度の学問を修めてから同志社に入学した彼らは、同志社の授業のレベルに不満を感じはじめます。

さらに襄の四福音書の講義もお世辞にも高度とは言えませんでした。「彼の研究は頗る未熟なために生徒を満足させることが出来ず、教室は常に討論場と化し去った」と生徒の小崎弘道(こざきひろみち)が述べたほどで、成績優秀な集団に教師が軽んじられてしまったのです。
挙句には「当時私共はいわゆる学問の師としては先生を信じていなかった。それで皆で随分その方では先生をいじめたものである」とまで評される始末でした。

小崎弘道
▲小崎弘道

熊本バンドと八重の対立

熊本バンドの批判的な目は八重にも向けられました。キリスト教の信仰を会得したとはいえ、封建的な思想も同じく併せ持っていた彼らの目には八重の恰好から行動までが奇異に写ったのです。

花飾りのついた帽子をかぶり、着物を着つつも足元はハイヒールという和洋折衷の八重の恰好は特に扱き下ろされました。
生徒の徳富猪一郎(蘇峰・とくとみいいちろう・そほう)は八重を評して(ぬえ)だと酷評。鵺とはサルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビという架空の生物ですが、頭と足は西洋、胴体は日本という八重の恰好を皮肉ったものです。

鵺
▲鵺(歌川国芳・画)

ほかにも夫を「ジョー」と呼び捨てにしたり、夫よりも先に人力車に乗ったり、自転車を漕いだりと、当時の社会常識では考えられない行動を次々とする八重でしたから、熊本バンドならずとも京都市民からも怪訝な目で見られてしまいます。
さらに八重が英学校の聖書の授業に参加したときには、熊本バンドの面々は襄に八重を授業に連れてこないように苦言を呈したこともありました。

こんな具合でしたから、これでは話にならぬと、熊本バンドの面々は当時大阪にいたジェーンズに相談し、同志社を辞めて東京へ向かおうとします。
ところがジェーンズの返答は彼らにとって意外なモノだったのです。


画像引用:熊本市観光振興課 (http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=375)
同志社大学(http://www.dwc.doshisha.ac.jp/)
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