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八重と襄は女子教育の場、同志社女学校を正式開校します。

八重と襄、同志社女学校を開校

襄、教会を設立する

熊本バンドとの和解

同志社に対する熊本バンドの面々の不満を聞いたジェーンズは、彼らに同調したでしょうか?
いいえ、逆に彼らを諭したのです。不満があるならば、まず自分たちで改革しなさいと。

なるほど、それはそうだと同志社に戻った熊本バンドは襄に対して、同志社の改革案を示します。
あっさり却下されるかと思いきや、襄はこの提案を大いに喜んで取り入れました。キリスト教教育の学校運営を手探りで試行錯誤していた襄にとって、この提案はまたとない助太刀となったのです。

以降、熊本バンドにより同志社の基礎ががっちりと組み上がっていくことになります。

リロイ・ランシング・ジェーンズ
▲リロイ・ランシング・ジェーンズ

襄、教会を設立する

キリスト教教育の前進に伴い、キリスト教自体も広げて行かねばならぬと、襄は布教活動にも力を注ぎました。そもそも襄はアメリカン・ボードの準宣教師なのです。

伝道するにはまず場所が要ると、明治9年(1876年)11月、京都第一公会ドウェイト・ウィットニー・ラーネッド(Dwight Whitney Learned)邸に17人体制で開きます。公会とは教会のことです。
ラーネッドもまたアメリカン・ボードの宣教師で、この年の春から襄を手助けして、同志社の基礎固めに尽力した人物です。

さらに翌月には第二公会を23人体制で襄の自宅に、第三公会を20人体制でエドワード・トッピング・ドーン邸に開きました。ドーン夫人は八重とともに女子向けの私塾を開いた人物。
襄は第二公会を設立した日に自らが初代牧師として司式となり、8人の洗礼の儀を執り行いました。その8人の中には八重の母のさく、覚馬の娘みね、襄の姉みよ、徳富猪一郎(蘇峰)も含まれます。翌年3月には襄の父、民治も洗礼を受けました。
第二公会は現在では日本キリスト教団同志社教会となって存続しており、同志社の学生や教職員を中心に信徒が集っています。
また第一公会と第三公会はのちに合併して日本キリスト教団平安教会になり、町人や市民の教会を志向するようになりました。

ドウェイト・ウィットニー・ラーネッド
▲ドウェイト・ウィットニー・ラーネッド

短期間で3つもの教会を着々と設立した襄。その船出は順風満帆かのように見えましたが、そこはやはり仏教の町・京都ゆえにキリスト教への反発や疑念は簡単にぬぐえるものではありません。
宣教師デイヴィスが京都に移ってきて半年ぐらいは、デイヴィス邸の庭先に足を踏み入れる女性は皆無でした。おまけに八重の隣人たちは、八重の姿が見えると逃げてしまったのだそうです。

襄、同志社女学校を開校する

同志社女学校の開校

京都御苑にあった旧・柳原前光邸のデイヴィスの自宅で、アリス・ジェネット・スタークウェザーが手掛けていた女子教育。寄宿制の女子塾ゆえに京都ホームと呼ばれていました。明治9年(1976年)10月には正式に授業を開始、覚馬の娘のみねも生徒となり、12名が学びました。

明治10年(1877年)4月には、襄が京都府に「同志社分校女紅場開業願」を出願します。受理した京都府は開校に関して、意外にもすぐOKを出しました。
ただ、出願書類に記された開講科目が女紅場の扱う枠を越えていることに着目し、女学校と改称して開校するよう進言します。女紅場はあくまでも殖産のための学問であり、知識教育を突き詰めるならば女紅場ではおかしいと考えたのです。
襄はそれを受け、8月に女学校への改称願を提出。9月には認可が下り、京都で初となる私立女学校である同志社女学校が誕生しました。校長は英学校と兼任で襄が就任しました。また八重も礼法の教員となります。

またこの夏、八重と襄は和歌山県の和歌浦で17日間、京都市の梅ヶ畑栂尾(うめがはたとがのお)で1週間ほどの休暇を過ごしました。
同じころに、やくざの養子でありながら稼業を嫌い実業家を目指していた大澤善助(おおさわぜんすけ)が襄によって洗礼を受けます。大澤はのちに実業家として成功し、現在の株式会社大沢商会グループの創始者になりました。

大澤善助
▲大澤善助

そこへまたも問題が湧いてきました。
旧・柳原前光邸が御苑整備事業で取り壊されることになり、同志社女学校の移転が急務となります。同志社英学校の近くでどこかめぼしい物件はないものか、と探したところ、ちょうど今出川通りを挟んで向かい、常盤井殿町の二条関白御殿(藤原氏北家九条流に属する公家・二条家の邸宅)が明治維新後は空いていたのです。

とはいえ、キリスト教への猜疑心が強い京都において同志社の名前を出して土地を売買できるとは、とてもではないが思えません。
そこで一計を案じ、そばに住んでいた材木取引商の堀本利慶に依頼し、彼の名義で土地4,969坪を購入することにしたのです。このとき、洗礼を受けて間がない大澤善助が交渉に尽力してくれたといいます。

下の図で御苑の北側のオレンジ着色部分が今回の購入土地になります。

京都府区組分細図
▲京都府区組分細図

京都府と仏教界から疎まれる存在だった同志社。その影響は当然京都府顧問の覚馬にも向けられ、同志社に協力的だった姿勢の覚馬は京都府知事槇村正直(この年の1月に副知事から知事に昇進していました)ともぎくしゃくするようになり、挙句には12月に京都府顧問を解雇されてしまいます。
覚馬はこのあと、意外な行動に出るのですが…


画像引用:国際日本文化研究センター(http://www.nichibun.ac.jp/)
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