home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

教育だけでなくキリスト教の伝道にも力を入れる襄、
暇を見つけては日本全国へ伝道の旅に出るようになります。

八重と襄の新居、新島旧邸完成

襄、伝道の旅へ

安中教会の開設

年が改まって明治11年(1878年)となりました。1年と少し前に公会を設立して以来、襄は同志社の教育者であるとともに、キリスト教の伝道者でもあるゆえ、伝道活動にも力を入れていくことになります。

3月末、襄は懐かしの地、群馬・安中へ向かいました。この当時はまだ東海道本線は全通しておらず、襄は船を利用して遠方へ出かけていました。東京からは馬車で高崎へ、そこからは人力車で安中に入ります。
安中では襄の帰国時の伝道により誕生した30人もの求道者たちとの再会を喜び、集会を持ちます。そして30人は醤油醸造の有田屋当主である湯浅治郎(ゆあさじろう)が日本で最初に開設した私設図書館便覧舎(べんらんしゃ)にて、洗礼の儀式を施されました。

リロイ・ランシング・ジェーンズ
▲安中で洗礼を受けた30人

次いで襄の司式で「公会設立式」を執り行い、熊本バンドの一員であった海老名弾正(えびなだんじょう)を仮牧師として正式に安中教会が発足します。
安中教会は群馬県で最初の教会であり、また日本人のみによって設立された最初の民間の教会。当初は便覧舎で礼拝が持たれ、のちに新たに会堂を新設、襄の没後30年後の大正8年(1919年)には新島襄記念会堂が建設され現在に至ります。

安中教会
▲安中教会
(群馬県安中市安中3-19-10)

この安中以外にも、襄は日本全国さまざまな場所を伝道で訪問しました。生来身体が丈夫ではなかった襄ですので、旅の道中も腰がかなり痛んだりしたはずで、痛みに耐えながらの旅だったことは想像に難くありません。

また襄は遠方でなく、京都の近場でも熱心に伝道活動に励みました。5月には滋賀県の大津で、八重とともに伝道をします。
さらに大阪の和泉岸和田藩の最後の藩主であった岡部長職(おかべながもと)が、当時アメリカのマサチューセッツから襄に手紙を送り、地元岸和田の人々に福音を説いてほしいと依頼。襄は岸和田でも伝道をはじめました。

岸和田での布教には和泉岸和田藩の藩士だった山岡尹方(やまおかただかた)が、襄に協力し、自らも岸和田で初めての信者となります。煉瓦製造業や水飴製造業を始めたものの事業が上手く行かず悩んで自殺まで考えていた山岡でしたが、襄との出会いを通じて同志社に入学し、のちに再度煉瓦製造業で成功を収めるのです。

岡部長職
▲岡部長職

このころ、襄はアンドーヴァー時代に世話になったメアリー・エリザベス・ヒドゥンに手紙を送っています。手紙には「就寝時間を過ぎているため、八重が私の体調を気遣って手紙を書くのをやめるよう言ってきます。
私はいつも妻には優しくしていますが、今日は手紙を書き終わらせるため頑固に拒んだのです」と冗談めかして近況が記されています。
また、数週間頭痛とは無縁で快眠でき、目の調子も良いと書いており、八重がしっかりと襄の健康を気遣って管理していることを窺わせます。

八重と襄の新居、新島旧邸完成

襄の入試問題

明治11年(1878年)5月、八重と襄は手狭だった家からの引っ越しを考え、新居建設に乗り出します。区長に建築届を届け出た住所は、京都市上京区第二十二区松蔭町18。つまり3年前に同志社英学校仮校舎のあった「中井屋敷」跡でした。

新居の建設資金は襄のボストン時代の友人であり、ハーディーに恩義を受けたヨシュア・モンゴメリ・シアーズ(Joshua Montgomery Sears)の寄付によって賄われました。

新居の建設が進む夏のある日のこと、熊本バンドの徳富猪一郎の弟である徳富健次郎(とくとみけんじろう・のちの徳冨蘆花)が同志社で学ぶために京都へやってきます。健次郎はまだ10歳の子供でしたが、そうであっても同志社に入るには試験にパスせねばなりません。
当時の同志社の入試は現在の記述式と違って、試験当日に試験官に渡された書物を音読して、かつ試験官が繰り出す設問に口頭で回答するというものでした。

襄は健次郎の入試を、最上級生でやはり熊本バンド出身の山崎為徳(やまざきためのり)に託します。
山崎は明治7年(1874年)に文部省から刊行された世界史の教科書「万国史略」を健次郎に手渡して音読させました。小学校中高学年向きの教科書とはいえ、健次郎は手に触れたこともなかったため、山崎の質問に対して再三返答につまづきました。こりゃダメだと山崎は判断したに違いありません。

翌日、健次郎は別の男性にも声を掛けられ、日本史の教科書「日本略史」を手渡されます。その男性は「これを読んでごらん」と健次郎に優しく言いました。その温かみのある目にホッとしたのか、健次郎はすらすらと読み上げることができ、試験に合格したのです。
その男性とは襄でした。山崎から入試の報告を受けてもなお、襄は再度健次郎にチャンスを与えたと言えましょう。

日本略史
▲日本略史(野田市立図書館蔵)

めでたく入学となった健次郎は「勉強なさい」と言われて喜び、同志社の生徒となります。
そして入試では辛い判断を下した山崎ですが、その後、健次郎とは仲良く遊ぶ仲となるのでした。

新島旧邸の完成

8月、山崎は、徳富猪一郎(蘇峰)と健次郎たちを連れ、岸和田へ向かいます。山崎は伝道のため、猪一郎と健次郎はその支援と修養のためでした。
また、襄と八重は比叡山に避暑のため人力車で訪れます。

9月、かねてから建設していた新居が完成しました。
新居の外観はコロニアル様式を取り入れつつ真壁造で、和を重視した洋風建築。冬の京都の寒さをしのぐため、なんとセントラルヒーティングを導入し、さらに夏場の盆地ならではの暑さを和らげるために屋根の庇を深く設計しています。
内装は西洋風にフローリング。テーブルと椅子を配置し、トイレも洋式トイレを採用しました。木造の洋式トイレは、現存するものでは最古と言われています。
この新居は新島旧邸と呼ばれ、現在でも見学が可能です(予約制)。

明治末期の新島旧邸
▲明治末期の新島旧邸(写真:同志社大学蔵)

新居の敷地は広く、襄は畑を作ってイチゴやアスパラガスなどの当時ではまだ珍しい作物の栽培を手掛けたり、乳牛を飼う許可申請を出したりと、さまざまな楽しみ方をしていたようですが、八重は畑仕事には関心を示さなかったのだとか。
襄は八重に向かって「会津の人も斗南で農業をしているではないですか」と諭したそうですが、それを八重が聞きいれたのかどうかは定かではありません。


画像引用:安中市(http://www.city.annaka.gunma.jp/kanko_spot/bunkazai_shiseki/)
野田市立図書館(http://www.library-noda.jp/homepage/digilib/meiji/017.html)
同志社大学(http://www.doshisha.ac.jp/yae/)
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