home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

愉快なそしてほっこりとする襄と八重の生活の一場面を覗きつつ
同志社女学校で巻き起った八重とスタークウェザーの対立問題を詳しく見てゆきます

八重と襄の生活と女学校の混乱

八重と襄の生活

八重と襄の日常

新島旧邸でのふたりの朝は早いものでした。襄が若いころから頭痛に悩まされていたこともあり、眠りが浅いのか、早くに起きて6時半には朝食を済ませていました。洋食が多く、コーヒーも嗜んでいます。
襄は7時前には家を出て、徒歩で同志社へ向かいます。郵便夫が持つようなカバンに本をたくさん詰めて通っていました。
昼どきには大抵家に戻り、食事をしたようです。また同志社の食堂で食事を済ませたり、来客と食事をするときは、わざわざ小間使いを旧居の八重まで寄越して伝言したというほどに律義な性格でした。

襄は帰宅すると挨拶もそこそこに鞄を書斎の前に投げ出して畑に向かい、犬も飼っていましたので、その世話をしたりしていました。いつも2~3匹は飼っていたようです。なかでも晩年に飼っていたビーグルの弁慶を非常にかわいがり、写真館で記念撮影までしています。

ビーグルを飼っていたのは、襄の趣味の一つに狩猟があったことも関係があるかもしれません。しかし、その腕前は褒められたものでありませんでした。
成果なしで帰って来ることも多かったため、鉄砲の腕前では断然上の八重は「鳥を撃つより、追いに行くようなもの」と辛口の批評をしています。

狩猟

また襄は酒は全く飲まず、煙草は以前吸っていたものの、喫煙の時間がもったいないと思い立ち、アメリカへ向かう米国商船ワイルド・ローヴァー号の船上で禁煙しています。ところが米国到着後に船の番を仰せつかり、つい暇にあかせて煙管をふかしてしまったのです。一度禁煙を誓ったのにこのザマでは情けないとすぐに思い直し、なんと買ったばかりの煙管を二つに折ってしまいました。それ以降、襄は煙草を吸っていません。

酒も煙草も縁がない生活を送る襄でしたが、どうやら甘いモノには目がなかったようです。
ある日のことです。翌日の来客のため、八重がジンジャーブレッドを作って、戸棚にしまい、鍵をかけておきました。戸棚に鍵?と思われるでしょうが、それくらいしないと襄が探し出して勝手に食べてしまうから。

ジンジャーブレッド
▲ジンジャーブレッド

八重がこれで安心と用事を済ませに外出してから戻ってみると、襄と熊本バンドの金森通倫(かなもりみちとも、つうりん)が八重を見てクスクス笑うではありませんか。
ん?と怪訝に思った八重が戸棚を確認してみると、鍵はしっかりついています。襄がさらに「菓子を焼いたつもりなの?」と言うものですから、解錠して扉を開けてみると、戸棚の中はからっぽ。
襄たちは鍵を外すではなく、なんと扉ごと引き上げて外して中のジンジャーブレッドを食べ、何食わぬ顔で元通りに扉をはめこんでおいたのです。
八重がぶつぶつ言いながらジンジャーブレッドを焼き直したのは言うまでもありません。

金森通倫
▲金森通倫

こんな話もあります。
洋装の八重は、足元もハイヒール。しかし、体躯が大きかった八重のハイヒール姿は、襄には危なっかしく見えたようです。
ある日、英国製のハイヒールを履こうとした八重は、箱からハイヒールを出してみて違和感に気付きました。かかとが低くなっていたのです。
襄に尋ねてみると「転んだら大変だから切りました。結婚前からそれが心配だったのです」との返事が返って来たそうです。

八重とかるた

八重は同志社の生徒をよく家に呼んでは、菓子を振る舞ったりしていました。特に土曜日や正月には、かるた大会を開いて皆で興じています。
かるたと言っても普通の百人一首とはちょっと違います。通常は和歌の上の句を詠みあげて、下の句が書かれたかるたを取り合いますが、そうではなく下の句を詠みあげて、下の句が書かれたかるたを取り合うというもの。いろはかるたと同じ手法です。
しかもかるたは紙ではなく板でできていました。

この板かるた、会津ではおそらく一般的だったのでしょう。同志社にも会津出身の生徒が6~7人いましたので、集ってはかるた大会を楽しんでいたようです。
しかも八重は板かるたの名手でした。5~6人が束になってかかっても八重には敵わず、毎度八重の独擅場だったそうです。

現在の板かるた
▲現在の板かるた

女学校の混乱と覚馬の出馬

一方、襄が校長を務め、八重も教員として勤めていた同志社女学校ですが、実質の指導者はスタークウェザーでした。八重だけでなく八重の母・さくも舎監として女学校で勤務していましたが、実に困ったことが発生していました。スタークウェザーと八重・さくの双方の指導手法と理念に溝ができていたのです。
これはいわば西洋の先進的な考え方と、日本の封建的な考え方の対立。女性でも人の上に立ち、指導したりえる、学校を女性が運営できるとした考え方は、まだ日本では根付いてなかったのです。日本人側は当然校長たる襄がトップであり、一教師のスタークウェザーが権限を振るうべきではないという発想でした。

まして八重やさくは会津の出身。日新館童子訓が身についているだけに、やはりキリスト教の思想とは相反する部分をどうしても捨てきれなかったのでしょう。そして捨てる必要すらないと考えていたに違いありません。
八重が女学校で小笠原流礼法を教えていたことも、スタークウェザーの反感を買います。
さくもまた生徒と結託して寮から宣教師を追い出してしまいました

そして京都府顧問を解雇された覚馬ですが、そんな程度で落ち込んでいる人物ではありません。
明治12年(1879年)第1回京都府会(現・京都府議会)選挙に立候補します。しかも堂々当選。盲人ゆえに時栄に付き添われての登庁でしたが、第1回府会では議長に選出されました。
その府会で覚馬は、かつてタッグを組んでいた知事の槇村正直と対決することになるのですが…


画像引用:wikipedia/Ranveig(http://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Gingerbread_hearts.jpg)
日本キリスト教団岡山教会(http://ww3.tiki.ne.jp/~okchurch/index.html)
東邦製鏡株式会社(http://www.itakaruta.com/index.html)
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