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同志社黎明期の著名エピソード「自責の杖事件」とは
いったいどのような事件だったのか。意外な襄の問題解決法。

八重と襄と自責の杖事件

自責の杖事件

学級合併騒動

明治13年(1880年)の春。同志社でひと騒動が発生しました。当時の二年生が二つのクラスに分かれていたこと、これが事件の発端になります。本来の入学時期である9月入学の二年上級組と、4か月遅れで年次途中入学の二年下級組。当然上級組のほうが学習進度が早かったのですが、それぞれのクラスの生徒数が少なかったため学校運営上効率が悪いことを理由に宣教師たちがクラスの合併を決定しました。
しかも、この決定は襄が愛媛県に出張している際に起きたのです。

二年上級組の面々はこの決定に大反発。下級組の学習進度に合わせるなんて御免だとばかりに授業をボイコットしたのでした。
その先頭に立ったのが徳富健次郎だったのです。しかも最上級生である兄・徳富猪一郎が裏で彼らを扇動していました。

何も知らずに出張から戻って来た襄は、授業ボイコットにびっくり。さらに上級組の面々は襄に「御伺書」を提出し、必要十分な説明なしでの合併決定の理由を問い質したのでした。
しかもその御伺書には、徳富健次郎だけでなく襄の義理の甥にあたる新島公義(にいじまきみよし)や、交流のあった農学者のキリスト教徒・津田仙(つだせん)より預かっていた長男・津田元親(つだもとちか)の名前まであったのです。

御伺書
▲御伺書(写真:同志社大学蔵)

自責の杖

非常に目をかけていた生徒に加えて近親者までもが反乱を起こしたのですから、襄は大きく動揺します。学校の規律を乱した罰を与えれば生徒は去ってしまい、かといって大目に見れば秩序が保てなくなってしまうからです。
襄は生徒たちを自邸に呼んで説得し、騒動自体は収まったのですが、その処分をどうするかで襄は悩みました。

4月13日の朝。礼拝の説法がいつもどおりに行われます。説法は教師が当番制で実施しますが、その日は襄が率先して担当しました。説法が終わると、襄はかの問題について話し始めるのです。
「彼らの行為はその監督者の不行き届きによるものです。彼らを罰することはできません。私は監督者たる校長の自分を罰します
そう言い終わると、襄は持っていた白木の杖で手の甲を力いっぱい打ち叩きはじめました。

最初何が起こったのか理解できなかった生徒たちでしたが、何度も何度も手を打ち叩き、しまいには杖が折れてしまっても叩き続ける襄の姿に心を突き動かされます。涙ながらに襄を制止して泣きむせぶ生徒たちに襄は、規則の遵守とこの問題の最終解決を確認して事件の幕を引いたのでした。
これを自責の杖事件といいます。

またこの際に、襄は淀藩(京都府京都市伏見区近辺)の家老・佐川田昌俊(さがわだまさとし)が詠んだ和歌を暗誦しました。

吉野山花咲くころの朝な朝な 心にかかる峰の白雲

吉野山に桜の花が咲く頃になると、毎朝毎朝、峰にかかる白い雲を花ではないのかと見間違えて気に掛かる――
和歌で自分の教え子を桜の花に例え、いつでも気に掛けているのだという気持ちを示したのです。

その日、八重と襄は人力車に相乗りしました。
体躯の大きな八重ですから、シートはふたり座れば一杯です。道中、車が何かの拍子で揺れたときに八重の身体が襄の手にのしかかってしまい、襄は思わず「痛い!」と声をあげてしまいました。
見れば襄の手が大きく腫れあがっています。「黙っておこうと思ったんだけれど、実はね…」と、襄は今朝のいきさつを話したのだそうです。

事件の余波

襄が自らを罰したことで事件の全てが終わったかと思いきや、そうではありませんでした。
授業ボイコットの黒幕だった徳富猪一郎が寮を出てしまい、退学を申し出たのです。卒業目前だったこともあり襄は彼を引き留めましたが、意志は固く、彼と弟の健次郎を含めて4人が自主退学となってしまいます。
とはいえ、退学後に東京へ向かおうとして旅費を無心しに新島家を訪ねるという、妙に虫のいい話も伝わっていたり…

しかも退学した4人のうち、安中で私設図書館・便覧舎を開設した湯浅治郎の弟・湯浅吉郎(ゆあさきちろう)に至っては、兄に追い返されて再度復学しています。

また襄の甥・新島公義も退学届を出しましたが襄に「学校に来たくないのなら、家に引き籠ってなさい」と怒られ、届を受理してもらえませんでした。同様に津田元親の届も受理していません。

湯浅吉郎
▲湯浅吉郎(湯浅半月)

覚馬の逆襲

地方税追徴布達事件

同志社が自責の杖事件を経て徳富猪一郎たちの退学問題で揺れていたころ、京都府会(京都府議会)でも事件が持ち上がっていました。

府の税収が足りなくなったことから、府知事の槇村正直は地租、今で言う固定資産税の追加徴収を命じました(第211号布達)。
ところが税の追加徴収決定の権限は本来、知事にはありません。府会にあるのです。府会議員であり議長でもあった覚馬は、槇村のこの行為を「府県会規則第一条 府県会ハ地方税ヲ以テ支弁スヘキ経費ノ予算及ヒ其徴収方法ヲ議定ス」に違反した横暴な越権だとして非難しました。

槇村はやむをえず布達を撤回し、府会に追徴議案を提出。結果的に議案は可決しましたが、そこでも強引に府会議員に圧力をかけたため、世論の反発を受けて翌年知事を退任する羽目になってしまいました。その後、槇村は東京に移り、元老院議官(帝国議会開設以前の立法機関の議員)になっています。
また覚馬も就任から1年で、議長・議員とも辞職しました。

槇村正直
▲槇村正直

画像引用:同志社大学(http://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-1547/8884/file/133_058.pdf)
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