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新島八重が育った会津藩。幼少期の八重を育んだ会津藩には
こどもたちに守るべき掟がありました

新島襄の生誕とペリー来航

八重の幼少期

活発な八重

幼少期の八重はとっても活発。男の子のように外で走りまわって遊んでいた元気な少女でした。
八重が住んでいた会津若松の城下、米代四ノ丁ですが、八重の住まいのすぐ斜め裏に日向家が、その隣には高木家があります。
下図の赤色囲みが八重の家(兄の覚馬の名が見えます)、青色囲みが日向家、緑色囲みが高木家です。

新島襄先生誕生之地
▲城下の古地図

それぞれ日向ユキ(ひなたゆき)、高木時尾(ときお)という小さな女の子がおり、2人は八重の幼馴染。
高木家には盲目のお婆さんもいて、このお婆さんに八重たちは裁縫を習っていました。ある程度裁縫技術を会得した八重に対して、高木家のお婆さんが裁縫を教えるのを手伝ってほしい旨を頼んだところ、座ってする仕事は性に合わないので、と断ってしまいます。それくらい活発でじっとしてられない性分でした。

兄の山本覚馬

八重よりも17も年上の覚馬は4歳のときには既に中国の唐代にできた詩、五言絶句を暗誦できたという天才児。当時、会津藩では10歳になると藩校日新館へ通いましたが、覚馬は1年早く9歳で入学します。

日新館は享和3年(1803年)に完成した生徒数1,000~1,300人と東日本最大を誇る藩校で、それだけに会津藩の教育に掛ける熱意は相当のモノ。
そこでも覚馬は勉学に励み、頭角を表し始めます。

什の掟

什とは

会津藩の教育に対する真摯な姿勢は10歳未満の子供にも注がれます。同じ地区に住んでいる6歳から9歳までの男子は十人ほどでグループを作らされます。このグループを(じゅう)と呼び、家の階級に関係なく年長者が什長となりました。

什には掟があり、それは絶対視されるものでした。

什の掟
▲什の掟

掟は次の通りです。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

什によっては多少文言が異なるものもありましたが、最後の「ならぬことはならぬものです」の文はどの什でも共通でした。

また、什の掟を破った場合には、その度合いに応じて罰がありました。
一番軽い罰は無念と呼ばれ、いわゆる謝罪です。皆に向かって「無念でありました」と頭を下げます。
次いで竹篦(しっぺい)。しっぺのことです。罪の重さに応じてしっぺされる場所や回数が決められました。
最も重い罰が派切り。絶交の意味で、違反者の父親または兄が付き添って什長に侘びを入れた上で、他の什のメンバーからの同意が出てようやく許されるというものでした。

什の教えの発展形が日新館でも徹底されて教えられます。それが「日新館童子訓」で、什の掟よりも詳細な内容でした。
女子の八重は什にも入れず、日新館に通うこともありませんでしたが、父や兄の影響で7歳のころには什の掟も日新館童士訓も暗誦できたといいます。

日新館
▲復元された日新館(会津若松市河東町南高野字高塚山10)

日新館で優秀な成績を修めた兄の覚馬は、1853年(嘉永6年)師の林権助(はやしごんすけ)が江戸出府を命じられた際に随行し、勝海舟と西洋兵学の師、佐久間象山(さくましょうざん)に師事します。


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画像引用:財団法人福島県観光物産交流協会(http://www.tif.ne.jp/jp/photo/)
會津藩校 日新館(http://www.nisshinkan.jp/)