home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

京都で兄の覚馬と再会を果たした八重の
新天地での新生活がスタートしました

八重、学問の現場へ

八重、女紅場へ通う

女紅場へ通う八重

京都にやって来た八重は覚馬の家で過ごし、その後開設された新英学級及女紅場(にょこうば)に通うようになります。女紅場とは女子向けの初等教育機関で、東京で官立女学校が開設されたわずか2カ月後に京都に新設されたもの。
場所は旧九条家河原邸。華族士族の子女78名を対象にしており(のちに一般民籍の子女の入学が許され生徒数は159名に増加)、英国人教師による英学(英語教育)と女工(裁縫、手芸、読み書き)の二科が置かれました。

女紅場は現在でも京都府立鴨沂高等学校(おうきこうとうがっこう)として存続しており、京都御苑のすぐ東隣にあります。そこから南東へ約400m下った鴨川の丸太町橋西詰に女紅場址の石碑が残っています。

女紅場址
▲女紅場址(京都市上京区駒之町)

覚馬の推薦もあって、八重は女紅場で権舎長兼教導試補として勤務することになり、京都府から給与をもらうようになりました。八重は小笠原流礼法(おがさわらりゅうれいほう)と養蚕を教えます。
またこのころ、八重は茶道に触れる機会を得ました。女紅場で茶道を教えていた裏千家の13代千宗室(円能斎)の母・猶鹿子(しかこ)と知り合ったためです。
この出会いがのちのち、現在の茶道にも大きな影響を与えることになります。八重の茶人としての顔が開花するのはもう少しあとのことですが…

博覧会と八重

覚馬と槇村正直のタッグで押し進めた京都府新政は、教育分野での革新のほか、産業分野でもその輝きを見せ始めます。最新の技術を披露して新産業の隆盛を図る見本市は現在も盛んに行われていますが、その先鞭をつけたのがやはりこのふたりだったのでした。

その名はズバリ博覧会。日本初の博覧会を開催したのです。1871年(明治4年)の11月に西本願寺で開催された博覧会は、規模の小ささもあって成功とは言えませんでしたが、その教訓を生かして翌年は会場を西本願寺だけでなく建仁寺や知恩院にも拡げて、名称も第1回京都博覧会として開催。
これが大成功をおさめます。

第1回京都博覧会
▲第1回京都博覧会

この博覧会開催にあたっては、京都府と民間によって創設された京都博覧会社が中心となって動きます。その中核を担った企業が京都の豪商・小野組でした。
なお、現在も続く春の祇園の風物詩都をどり・鴨川をどりは、この第1回京都博覧会の付博覧(余興)として始まったもので、博覧会開催中も大勢の見物客で賑わいを見せました。

博覧会の成功のもうひとつの理由に、外国人客の入場許可がありました。それまでは京都に外国人が立ち入ることは制限されていたのです。
外国人を積極的に博覧会に招こうと、覚馬は英語での観光ガイド作成を思い付き、その役目を八重に託します。もちろん外務省に外国人入京の許可を取った上での話です。

覚馬から役を任されたとはいえ、英語なんて一切触れたことも聞いたこともない八重。印刷機の活字片(アルファベット)を文章に合わせて組み上げていく作業を担当しましたが、左右反転した活字片のアルファベットには苦心したことでしょう。
このエピソードから八重のことを日本最初の英文植字工だとする人もいます。

小野組転籍事件

博覧会を成功に導いた覚馬たちでしたが、同時に面倒な事案も発生していました。京都博覧会社の中核を担ってきた小野組が本社を京都から東京へ移転したいと申し出たのです。
しかし、京都府はこれを認めなかったことから小野組転籍事件と呼ばれる事件へと発展します。

京都府の立場からすれば、大企業の転出は大幅な減収になります。絶対に阻止せねばとばかりに、小野組に対してことごとく嫌がらせに出たのでした。
転籍願いを反故にして、しかも白洲の上に座らせて詰問、転籍中止を命じます。
これに怒った小野組側は京都裁判所に提訴。しかし京都府との関係悪化を考えた裁判所は知らんぷりを決め込む始末でした。

こんな茶番は許されないと司法卿の江藤新平(えとうしんぺい)は裁判官を更迭し、代わりに着任した裁判官は京都府にただちに送籍を命じます。
しかしなんと京都府は裁判所命令を無視したのです。さらに罰金まで無視。徹底してます。

江藤新平
▲江藤新平

やり過ぎるとヤケドするというわけで、さすがにここまで来ると国家への愚弄だとの声も上がり、東京に出てきていた槇村正直を逮捕する騒ぎへと至ったのでした。

覚馬を背負う八重

槇村正直の逮捕に覚馬は動揺します。今まで二人三脚で府政を引っ張って来たのですから無理もありません。強引な手法や極端な政策も多かった槇村でしたが、それでも覚馬にとっては京都の再興には欠かせない人物だったのです。

政府要人の岩倉具視や木戸孝允たちに槙村の釈放を嘆願するために京都から東京へ向かう覚馬でしたが、当時失明していた上に歩行も困難になっていたため、八重が伴をしました。人力車で東京まで走り、現地では八重が覚馬をおぶったのだそうです。

そうこうするうちに征韓論がおこり、中央政界での政争に敗れた江藤新平が辞職することによって、風向きは変わります。木戸孝允は槇村の釈放と引き換えに罰金を科し、小野組の送籍を確定させてこの事件は幕を引いたのでした。


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画像引用:Mariemon(http://ja.wikipedia.org)
国立国会図書館(http://www.ndl.go.jp/portrait/)