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篤志看護婦として活動する八重。
そこへ勃発したのは日清戦争でした

八重の日清・日露戦争と茶人の顔

八重、篤志看護婦として動く

日清戦争での八重

襄の死後、八重は同志社の運営からは手を引きました。代わりに日本赤十字社の正社員となり、その年の年末に第1回帝国議会が召集されるやいなや、衆議院を傍聴しています。より広い社会参加の場を求めた八重は、篤志看護婦人会に入会して看護の道へと邁進しました。

明治27年(1894年)、八重は49歳にして茶道の裏千家に入門。女紅場時代に13代千宗室圓能斎(えんのうさい)の母・猶鹿子(しかこ)と知りあっていたこともあり、圓能斎から直接手ほどきを受けることになります。女紅場時代はさほど熱心でもなかった茶道でしたが、茶の湯の魅力に開眼したのでしょう、熱心に稽古を重ねて、翌年には「茶通箱(さつうばこ)」(中級)の許状を受けています。
茶道といえばそれまでは男性の世界でした。女性の姿などほとんどなかったのです。そこへ割って入ったのが八重でした。

そのころ、かねてからくすぶっていた朝鮮半島をめぐり、日本と清国双方が出兵したまま兵を引かず、膠着状態が続いていました。朝鮮は清国の属国であるから当然に保護するのだという清国と、朝鮮を自主独立の国とすべく清国の介入を拒む日本。このふたつの勢力が朝鮮半島で激突します。いわゆる日清戦争です。

日清戦争勃発

戦場は国内ではなく朝鮮半島でしたが、その前線基地となったのが広島でした。明治天皇が広島に行幸の上、第5師団司令部に天皇直属の最高司令部である大本営が移設されます。さらに帝国議会までも広島西練兵場内に設置された仮議事堂で議会を召集するほどに全てが広島に集められたのでした。

それに先立つ形で7月、陸軍の病院であった広島衛戍病院(ひろしまえいじゅびょういん)が、広島陸軍予備病院と改称して戦時体制となります。軍医80名、雇医師92名、看護関係者1340名、日本赤十字社救護員315名が手当や看護に従事する大病院でした。のべ52,000人以上の患者が入院し、戦地から搬送されて地元の陸軍予備病院に転院するための待機病院として機能していたためです。

この救護活動に八重も11月から約7ヶ月間、篤志看護婦の取締役として53名を引き連れ参加します。当時の看護職はお世辞にも良い職業環境とは言えず、53名で八畳間わずか4室の民家に寝泊まりするなど、かなり厳しい労働条件の下での任務を強いられていました。この環境改善に関しても八重の同郷人である大山捨松(おおやますてまつ)が強力に推し進め、八重も同調しています。

大山捨松
▲大山捨松

この日本赤十字社による初めての軍事病院での活動は当初、陸軍が導入に大反対していました。その声を抑えての導入でしたが、蓋を開けてみればその看護技術の高さと、献身的な態度は内外に高い評価を呼びます。新聞は彼女たちを「慈母」と称え、世間の看護婦への視線は大きく変貌しました。

明治29年(1896年)12月、日清戦争での働きが認められて、八重は皇族以外の女性として初めて勲七等宝冠章と金70円を授与されています。その後も八重は篤志看護婦人会で看護学を修め、看護学校の助教を勤めました。
またこの年には八重の母・さくが死去。87歳という長寿を全うします。

篤志看護婦正装姿の八重
▲篤志看護婦正装姿の八重(写真:同志社大学蔵)

日露戦争での八重

明治31年(1898年)、八重は茶道にますます身を入れ、「真之行台子(しんのぎょうだいす)」(講師)の許状を受けました。茶道を人に教える立場になり、同志社女学校同窓会長にも就任します。

明治37年(1904年)には日露戦争が勃発。ロシアの南下政策による朝鮮半島支配を防ぐため、満州や朝鮮半島沿岸で戦いの火ぶたが切られました。

日露戦争勃発

ここでもやはり八重は立ち上がり、今度は大阪へ向かいます。場所は大阪城内、大林組によって10月に竣工したばかりの大阪陸軍予備病院で78日間に及ぶ救護活動に汗を流しました。このとき、八重は還暦を迎えていました。その活躍と功績で勲六等宝冠章を叙勲しましたが、日清戦争時は看護婦の叙勲は八重ひとりだったものの、日露戦争時は叙勲の大盤振る舞いだったようで2,000名もの看護婦たちが四等から八等までの宝冠章を受けています。


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画像引用:同志社大学(http://www.doshisha.ac.jp/yae/)