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日露戦争後の八重は再婚することはなく養子をとり、
茶人として生きて行きます

八重のその後と晩年の逸話

八重のその後

八重と甘粕初子

日露戦争前の明治33年(1900年)、八重は養子を迎え入れました。名は甘粕初子(あまかすはつこ)。旧・米沢藩の名家の娘でしたが、父の鷲郎(しゅうろう)も母も相次いで死去してしまい、鷲郎の弟の三郎(さぶろう)に引き取られたものの、三郎も裕福とは言えず、そこへ八重が手を差し伸べた形になります。
八重と甘粕家との繋がりはそれほど強くはありませんが、襄とは親交があったため、それを汲んだわけです。

初子は翌年結婚します。相手は生前の襄が目をかけていた広津友信(ひろつとものぶ)という男で、アメリカ帰りの秀才。ゆくゆくは同志社を担う人物と目されていて、同志社校長心得に就任していましたが、思うところがあったのでしょう、友信はその職を辞して岡山の第六高等学校(現・岡山大学)の教師となったのでした。

第六高等学校
▲第六高等学校

初子も同じく岡山へ移り、4男2女を儲けました。なかでも襄の名前を取った襄次(じょうじ)を八重はこの上なく可愛がったそうです。

八重、茶の道をゆく

八重は質素倹約な女性…というわけでもなく、意外と金銭感覚が乏しかったようです。襄が自分の死後の八重の生活を案じて、ひと財産残してくれていましたが、いつの間にやら散財し、気がつけば残るは新島旧邸のみというありさま。どうやら熱中していた茶道で、茶道具などに使ってしまったそうです。

これはいかんと危惧した徳富猪一郎(蘇峰)らは、八重が新島旧邸を売り払わないように先手を打ち、明治40年(1907年)同志社が毎年600円(現在の約210万円)八重に支払うことを条件に旧邸を買い取りました。もちろん八重は旧邸に住み続けることができましたので、いわば同志社が八重に与えた年金のような形になります。

八重の浪費は同志社から支給される年間600円では足りなかったのでしょう、大澤善助に金の無心をすることがよくあったそうです。タダで金銭を渡すのは宜しくないと考えた善助は、孫娘ふたりを八重のもとに通わせて茶道を習わせ、その月謝として5円支払うようにしました。

明治42年(1909年)、八重は岡山へ2度出かけています。1度目は5月、山陽高等女学校(現・山陽女子中学校・高等学校)での講演のため。2度目は12月の訪問でしたが、特に公的な記録は残っておらず、私的に初子たちに会いに行ったものだと推測されます。山陽高等女学校では白虎隊について講演し、やはりここでも会津の日新館童子訓が登場しています。

山陽高等女学校
▲山陽高等女学校

翌年には襄の故郷の安中にも顔を出しました。襄の没後20年を記念した集会に出席するためです。その場において八重は「亡愛夫襄発病ノ覚」を読み、礼金を受け取っています。礼金は反物の購入に使った旨を、八重は後日礼状にしたためています。

茶道の師範となって12年後の明治43年(1910年)7月、圓能斎から「茶名(ちゃめい)」(専任講師)の許状を受けました。茶名とは歴代家元の「宗」の一字を頂くもの。本来は「引次(ひきつぎ)」「正引次(せいひきつぎ)」の許状を経て受けるものですが、八重は特例として「名誉引次」と同時に茶名を受けています。
その茶名は新島宗竹(にいじまそうちく)で、「竹」の字は襄を失った悲しみを詠んだ和歌から取られたと言われています。

たのみつる竹は深雪に埋もれて 世のうきふしをたれとかたらむ

時代は明治から大正に移ります。
大正元年(1912年)、八重は円能斎から寂中庵(じゃくちゅうあん)の扁額を贈られました。寂中庵とは新島旧邸の一角に設けられた茶室の名前。新島旧邸は襄の死後も生前そのままで残されていましたが、1階の洋室部分だけは茶室に改築されていたのです。
ここで八重は月3回土曜に茶会を開き、旧邸の茶室はさまざまな女性たちで賑わいを見せました。茶道が衰退してゆく時代の中、女性に茶道を広め、現在の隆盛を引き寄せた八重の功績は充分に大きいと言えましょう。

八重の晩年

気丈な八重のエピソード

大正10年(1921年)八重は四度目の安中訪問を行います。このとき八重は数え年で77歳になっていました。この際に八重は安中の新島襄旧宅も訪問しています。
また、安中に寄る前に山形と会津にも足を運んでいました。初子の夫・広津友信の赴任先が山形だったためです。会津では次のような和歌を残した八重。ふるさとで胸を去来するさまざまな思いがあったに違いありません。

東山弓張月はてらせども むかしの城はいまくさの原

茶道を始めてから30年経た大正12年(1923年)、「奥秘大円伝法真草二段」を授かり、茶道熱が全く冷めてない様子が伺える八重でしたが、その2年後には初子の子で実の孫のように可愛がっていた襄次が大学在学中に急病で死去してしまいました。気丈な八重でしたが、襄次の死はかなり堪えたようです。

気丈といえばこんなエピソードがあります。
新島旧邸でひとり暮らしていた八重。玄関先の呼び鈴代わりの鉦(かね)が鳴ったので出てみたところ、そこにいたのは5~6人もの荒々しい男たち。しかも「金を出せ」と脅すではありませんか。
押しかけ強盗に一瞬ひるんだ八重でしたが、梯子段の下から大声で二階に向かって
「タケダくん!●●●くん!▲▲くん!お前らなにしとるんや、はよ下りて来て」
と呼びかけたのです。
独居老婆の家かと思いきや大勢の若い男がいたのかと、強盗たちは一目散に逃げ出したのだそうですが、二階には誰もいるはずがなく、八重の機転の利いた一芝居がうまく功を奏したのでした。

ほかにも八重らしいといえば、朝風呂対決の逸話も。
晩年の八重の日課には朝風呂がありました。それも早朝5時から風呂屋に通うというもので、しかも同じ風呂屋に通う女性と張り合っていたのです。その女性とは京都の有力実業家であった田中源太郎(たなかげんたろう)の妹で滋野。
奇しくも茶道の心得があり、表千家の師範でもあったのですが、ふたりは茶の道で競ったわけではなく、どちらが先に風呂に入るかで競っていたと言うのです。八重が先に風呂に入っていれば、滋野は入らずに帰ってしまい、滋野が先に湯浴みをしていれば、八重はご機嫌斜めになってやはり風呂に入らずに帰ってしまったのだそう。

八重、銀杯を賜る

皇后陛下行啓紀念碑
▲皇后陛下行啓紀念碑

大正13年(1924年)、八重に栄誉ある時が訪れました。大正天皇の皇后であった貞明皇后(ていめいこうごう)の同志社ご視察が決定したのです。
京都行啓の一環でのご視察で、皇后は同志社女学校のほかにも京都高等女学校(現・京都女子大学)などにもお立ち寄りになられています。

同志社女学校では唱歌で行啓を歓迎し、授業風景などをご視察されたようで、当初2時間のご視察時間予定が3時間半に延長され、その間に八重は単独で皇后に拝謁する機会を得たのです。

そして時代は昭和に――
昭和3年(1928年)、八重は数えで84歳という高齢に関わらず元気に上京して、日本女子大学で講演をしています。
また福島県の会津高等女学校(現・福島県立葵高等学校 )の京都修学旅行にも八重が関係していました。訪問先だった琵琶湖インクラインが稼働していなかったアクシデントにより、京都守護職会津藩の本陣となった左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の塔頭である西雲院(さいうんいん)を急遽セッティングし、そこで八重は生徒たちを前に優しく「生き方」について語りかけたのです。
そこでも八重は日新館童子訓を暗誦し、翌日は大阪へ発つ生徒たちを京都駅まで見送りに行き、ハンカチを振って別れたと当時の生徒たちが綴っています。

同年、八重をはじめとして会津の人たちが歓喜する出来事がありました。旧会津藩主・松平容保の孫にあたる松平節子(まつだいらせつこ)と、大正天皇の第二皇子の秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)の御成婚です。御成婚に際して、節子は、皇室ゆかりの伊勢と会津松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、勢津子と改名しました。
勢津子妃殿下の誕生はただの慶事ではなく、逆賊やら朝敵やら戊辰戦争以来続いた会津の汚名を雪ぐ一大事。八重も大いに喜んで「萬歳々々萬々歳」と揮毫しています。

雍仁親王妃勢津子
▲雍仁親王妃勢津子

慶事は連続で起こります。同年末、昭和天皇即位の大礼の時に、八重は日本赤十字社での活動を受け、銀杯を下賜されました。

八重の最期

八重の茶道熱は晩年のここに来ても変わることなく続いていました。八重の茶室「寂中庵」に訪れて茶席を囲む多くの客人にはさまざまな人がおり、そのひとりに竹田黙雷(たけだもくらい)という建仁寺の僧侶がいました。
黙雷との茶を通じた会話の中に何か心惹かれることがあったのでしょう、禅にも興味を持ちはじめた八重は建仁寺に通い、禅の教えを施してくれるよう黙雷に頼んだのです。とはいえ、クリスチャンの八重と臨済宗では明らかに宗旨違いですので、黙雷は「教えることは何もないが、それでよければ遊びにいらっしゃい」と応えました。

それ以降、八重は月に4度ある黙雷の説法を聞くために建仁寺に通うようになります。
昭和5年(1930年)のこと、黙雷から臨済宗の袈裟(けさ)と「寿桃大師」の法名を賜わった八重。これがキリスト教から臨済宗に改宗したという噂になり、京都新聞がこれを報じる事態にまでなりました。
これに対して八重は「一つの宗教に籍を置いているからといって、他の宗教のお話を聞いてはいけないことにはならないでしょう」と答えています。

建仁寺
▲建仁寺(京都府京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町584)

この年、八重は数えで86歳の身体を押して再度会津の土を踏んでいます。会津高等女学校に出向いて自身の若き頃について講演をし、次の和歌を詠みました。

ふるさとわすれがたく 老ぬれどまたもこえなむ白川のせきのとざしはよしかたくとも

老骨に鞭打って会津まで足を運んだのには理由があります。それはこれまで点在していた山本家の墓を一箇所にまとめるためでした。
会津若松市慶山の大龍寺(だいりゅうじ)をその地に選び、翌年墓標を建立します。墓標の「山本家之墓」の文字は八重の筆と言われています。

大龍寺の山本家の墓
▲大龍寺の山本家の墓(福島県会津若松市慶山2-7-23)

年が明けて昭和7年(1932年)2月、京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)で八重の米寿祝賀晩餐会が開かれる予定になっていましたが、体調を崩していたため延期されます。八重の介護は広津家が率先して行っていました。
2か月後の4月に右京区太秦の大沢商会の別邸で催された祝賀会。八重は元気な姿を見せ、6月13日に開かれた茶会にも出席していましたが、その茶会から帰宅して間もなく倒れてしまい、翌日夕刻に世を去りました。

死因は急性胆嚢炎。享年86歳(数えで88歳)の生涯を閉じた場所は自宅でした。八重の死は全国紙でも報じられ、同志社は6月17日を休校にして八重の葬儀を執り行います。八重の墓は、左京区若王子の襄の墓の隣に建てられました。

江戸、明治、大正、昭和と激動の時代を駆け抜けた会津の女性・八重。その人生は決して順風満帆とはいきませんでしたが、彼女が歩んだ後には多くの者が続き、今なおこうしてその生きざまは語り継がれています。

新島八重と新島襄
Handsome woman and Joseph
――終――

2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」戦国武将・黒田如水の生涯を紐解く「参謀!黒田官兵衛の決断」 2012年NHK大河ドラマ「平清盛」平清盛ゆかりの地を訪ねる
画像引用:山陽女子中学校・高等学校(http://www.sanyojoshi.ed.jp/school.php?jpml=
school_3)、京都市行財政局歴史資料館 (http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/ fm/
ishibumi/html/ka082.html)、mic1017(http://www.photolibrary.jp/profile/
artist_30039_1.html)、福島県観光交流局観光交流課(http://www.yae-mottoshiritai.jp/
kazoku/dairyuji.html)