home 八重 襄 八重&襄 八重 平清盛ゆかりの地を訪ねる

江戸から帰って来た八重の兄・覚馬は日新館で教鞭をとります。
成長した八重は日新館で蘭学を教える川崎尚之助と出会いました。

八重と川崎尚之助の結婚

兄・覚馬の影響

覚馬、会津に戻る

活発な少女だった八重。12~13歳のころには60kgもの米俵を持ち上げて4度上げ下げできるほどだったそうです。となれば、興味の方向も男性ぽくなるのも頷けます。女性らしいものよりも、砲術や洋学といった男性が学ぶものに興味津々の少女でした。

そんな八重に大きな影響を与えたのが兄の覚馬です。黒船来襲以来にわかにざわつく江戸の町に滞在していた覚馬は、外国の軍隊の強さを目の当たりにして、剣術ではとてもではないが外国に太刀打ちできないことを実感。蘭学や西洋砲術に傾倒するようになります。

3年後の安政3年(1856年)、会津に戻って来た覚馬はかつて学んだ藩校・日新館にて教鞭を取り始めました。そして西洋砲術の威力を周囲に説いてまわるのですが、武士は剣で戦うものだという意識が強い上層部には話が通じません。

モルチール砲
▲日本人の手によって鋳造された最初の西洋式大砲「モルチール砲」
砲術家の高島秋帆によるもの(武雄市重要文化財)

あげくには上層部に疎まれて謹慎処分を受けてしまう覚馬でしたが、それでも持論を曲げることはありませんでした。
謹慎が解けても主張を続け、師の林権助の助力もあって、とうとう会津藩にも西洋砲術の導入が実現します。軍事取調役兼大砲頭取に任命された覚馬は自ら生徒に射撃を教えたのだそうです。

兄の覚馬がそんな具合でしたから、当然八重も砲術を覚馬から学ぶようになりました。

川崎尚之助の登場

覚馬は日新館に蘭学所を開いた安政4年(1857年)、樋口うらという女性と結婚します。そのころ日新館に新たな教授が加わりました。名前を川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)といいます。
尚之助は出石藩(いずしはん・兵庫県中部)の医師の家に育ち、蘭学と理化学を修めた若い学者。覚馬により会津に招かれ、覚馬と八重の自宅で寄宿をはじめます。

禁門の変

八月十八日の政変

開国、日米修好通商条約と外国との接点が大きくなるに従い、世の中は不安定さが増していきます。
幕府の弱腰を批判し外国勢力を徹底排除する尊王攘夷派と、朝廷の伝統的権威と幕府を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする現実志向の公武合体派との間の溝はますます広がるばかり。
尊王攘夷派は長州藩が、公武合体派は会津藩や薩摩藩が主軸となっていました。

そして尊王攘夷派が文久3年(1863年)に行動を起こします。5月、長州藩が攘夷決行の狼煙としてアメリカの商船を砲撃をしたのです。しかし長州藩は報復されてしまい、こてんぱんにやられてしまいます。
これではいかん、と長州藩は孝明天皇を巻きこんで攘夷を画策しようとし、天皇の与り知らぬところで計画を進めます。

先手を打ったのが公武合体派。8月、京の御所の全ての門を封鎖してしまいました。尊王攘夷派が御所内に入れないようにした上で朝議を実施し、尊王攘夷派の追放を決定します。(八月十八日の政変

1863年(文久3年) 八月十八日の政変勃発

禁門の変と覚馬の活躍

逃げ場を失った尊王攘夷派でしたが、公武合体派は手綱をゆるめません。翌年、京の旅館池田屋に集結していた尊王派を新選組を使って襲撃(池田屋事件)します。

池田屋の内部
▲池田屋の内部

これに憤慨した尊王攘夷派は京都守護職であった会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)を排除しようと京へ出兵します。そして蛤御門(はまぐりごもん・京都市上京区)付近で長州藩兵と会津、桑名藩兵が衝突するのです。(禁門の変・蛤御門の変

この衝突で、覚馬は大砲隊と足軽隊を統率し、長州藩兵に攻撃を加えました。覚馬は戦闘中に両目を負傷したものの、砲撃と西洋射撃の威力は素晴らしく、戦闘は公武合体派の圧倒的勝利で終わりました。覚馬は戦績を認められ、禄高増となります。

しかし戦闘のときに発生した火事が、京の市街に燃え広がってしまうという痛恨の事態発生。火の手はみるみるうちに都中にひろがり、2日にわたって燃え続け、約2万7000世帯を焼失する大惨事となってしまいました。この火事はどんどん焼けと呼ばれています。

元和元年(1864年) 禁門の変勃発

街を焦土にされてしまった京の町民からすると、政変に巻き込まれて迷惑このうえありません。政変を起こした長州藩ではなく、むしろ会津藩を恨むようになってしまいました。
攻撃を指揮した覚馬もまた、何の関係もない町民に迷惑をかけたという思いを抱き、その贖罪の気持ちがのちの京都での活躍に結びついていきます。

八重の結婚

八重の結婚

八重は自宅に寄宿していた学者・川崎尚之助と結婚します。当時、八重は19歳。歳の差8歳の夫婦の誕生です。残念ながら八重と尚之助の結婚については、あまり詳しい話は伝わっていません。
ただ、優秀な学者の才を持つ尚之助を藩に置いておくための覚馬の策なのではないかとも言われています。

しかし、尚之助との結婚生活はそれほど長くは続きませんでした。その理由とは一体なんだったのでしょうか。


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画像引用:佐賀新聞(http://www.saga-s.co.jp/)