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薩長同盟によりさらに暗転する幕末動静
一方、八重の兄、覚馬は長崎に向かいスペンサー銃を買い付けます

八重と幕末の動乱

兄・覚馬、長崎へ

薩摩藩の変移

元治元年(1864年)の禁門の変で朝廷に向けて発砲したとの理由から朝敵となった長州藩。幕府は長州討伐の兵を出すなどの措置に出ます。しかし、八重が暮らす会津藩と同じ公武合体派の薩摩藩は、長州藩と敵対することの不利益を考えはじめます。
そうこうするうち、長州内で松下村塾の高杉晋作(たかすぎしんさく)らが保守派打倒のクーデターを起こしました。ここにおいて薩摩藩は長州征伐を拒否。土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長同盟において、薩摩藩は密かに長州藩と結びついていたのです。

1866年(慶応2年) 薩長同盟締結
薩長同盟盟約覚書
▲薩長同盟盟約覚書(表、桂小五郎筆。裏(朱書)、坂本龍馬筆。宮内庁所蔵)

幕府による長州征伐は難航します。近代兵器を取り揃えた長州藩に苦戦した幕府はにっちもさっちもいかなくなる中、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)が21歳の若さで死去。そのあとを継いだ15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ・けいき)は会津藩の支持のもとで、江戸ではなく京の都にて朝廷と密接な関係を築き、幕府の延命を図ります。

長崎でスペンサー銃を購入する覚馬

時を前後して、禁門の変で活躍を見せた八重の兄・覚馬は、戦乱で負傷した目の治療のため長崎へ向かっていました。
当時長崎には幕府から招聘されたオランダ人医師ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)がおり、名うての眼科医として活躍していたのです。

アントニウス・ボードウィン
▲アントニウス・ボードウィン

しかしながら、先端のオランダ医学をもってしても覚馬の眼病に回復の見込みはなく、ボードウィンは彼に失明のおそれについて告知します。
既にかなりの視力を失っていた覚馬は落胆しますが、それでも手ぶらで長崎から帰る男ではありません。

安政6年(1860年)にクリストファー・スペンサーによって開発され、翌年勃発したアメリカ南北戦争で使用された7連式スペンサー銃を覚馬は西洋人から買い取ることに成功したのです。

スペンサー銃
▲1865 Spencer Rifle

覚馬は購入したスペンサー銃を会津の八重に送りました。このスペンサー銃はのちの八重のシンボルになるのですが、このときはまだそんな気配はありませんでした。
というのも、砲術に大きな興味を抱いていた八重は銃を受け取って素直に喜びますが、父から砲術の訓練を止められていたので、試し撃ちをすることすらできなかったためです。

ちなみに、八重には2歳年下の三郎という弟がいました。この頃にはもう立派な青年になっていた三郎。会津藩士として京の都に赴任することが決まり、生まれ育った会津を旅立ちます。

明治維新

大政奉還

そんな中、慶応2年(1866年)12月25日、孝明天皇が天然痘に罹患し崩御。続いて明治天皇が満14歳で即位しました。
一方、朝廷との融和を図る幕府は、反幕府側に立つ薩摩藩や長州藩を牽制するために政権を明治天皇に返す大政奉還により、優位な立場を狙います。将軍慶喜は大政奉還後も実質的な政治権力は幕府主導の会議が持つというイメージを描いていました。

大政奉還
▲聖徳記念絵画館 壁画「大政奉還」

大政奉還の前日、朝廷は薩摩藩と長州藩に命令を下します。それは討幕の密勅と呼ばれ、文字通り秘密裏に下された幕府討伐の命令。
しかし翌日に大政奉還が実施されてしまったため、密勅は有名無実に陥ります。

この宙ぶらりんな状態では、今後も徳川将軍が政治の中枢のままで何も変わらないと危惧する勢力がありました。実際、朝廷の政治能力は乏しく、外交などはすべて幕府任せで公武合体派が牛耳っていたのです。
その勢力とは倒幕を目指していた薩摩藩のほか、公家岩倉具視(いわくらともみ)などの面々でした。

王政復古の大号令

状況の打破を狙い、岩倉具視や薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち)はクーデターを謀ります。江戸幕府を廃止して新政府を樹立し、その人事を倒幕派の薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩、皇族、公家が占めるとするもので、このクーデターは王政復古の大号令と呼ばれています。

1868年(慶応3年) 王政復古の大号令

将軍慶喜は表向きこれを受け入れましたが、それでも権力を捨てる気はさらさらなく、京の二条城から大坂城に移り、自身の正統性を諸外国に訴えます。新政府が決定した領地の没収にも応じず、旧幕府と新政府の対立は目に見えて大きくなりいよいよ衝突を迎えるのでした。


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