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新政府に対する幕府軍の反発は強く、戊辰戦争へと発展
鳥羽伏見の戦いに八重の弟は参戦しますが、八重に届いた報せは…

八重に告げられた兄弟の死

三郎の死

鳥羽・伏見の戦い

新政府に反発する旧幕府。これに対し、新政府側の薩摩藩は旧幕府勢力に対し、挑発行為を頻発させます。江戸では薩摩藩士たちによる放火や強盗が続き、旧幕府は庄内藩(山形県)に命じて薩摩藩邸を襲撃させました。
これをきっかけに両勢力の全面武力対決がはじまります。いわゆる戊辰戦争(ぼしんせんそう)です。

徳川慶喜から薩摩藩を倒せとの命を受けた会津藩や桑名藩(三重県)は京へ向けて出兵を開始します。この軍勢の中には、八重の弟である三郎も加わっていました。
慶応4年(1868年)1月2日、神戸沖で旧幕府軍艦が薩摩藩軍艦に発砲し、これが宣戦布告となって戦闘が開始されました。次いで大坂の薩摩藩邸を襲撃。京の郊外にある鳥羽や伏見近辺では大々的な戦となります。鳥羽・伏見の戦いです。

1866年(慶応2年) 薩長同盟締結
鳥羽・伏見の戦い
▲鳥羽・伏見の戦い(小枝橋の戦い)

新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と兵力差は旧幕府軍が圧倒しており旧幕府軍優勢かと見えましたが、実際には新政府軍が戦局を有利に押し進めます。

錦の御旗
▲錦の御旗の図 (国立公文書館蔵)

朝廷が小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう・仁和寺宮嘉彰親王)を征夷大将軍に任命し、朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える錦の御旗を掲げて戦に臨んだことが、心理的に大きな効果を与えました。
歴史的に錦の御旗を掲げた軍が官軍、敵側は賊軍だと認知されていたため、旧幕府軍のなかには旗を見ただけで朝敵認定されることを恐れ、退却してしまう者もいたのだとか。

三郎の死

この状況での勝利は厳しいと考えた旧幕府軍の総大将・徳川慶喜は大坂から江戸へ脱出します。総大将逃亡の報せを受けた旧幕府軍はガタガタになり、戦いは新政府軍の勝利で終結しました。

しかも会津藩の軍を率いていた軍事奉行添役の神保修理(じんぼしゅり)が慶喜に大坂脱出を進言したとも言われ、会津藩内で非難の声が上がり、鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人としてスケープゴートにされてしまいます。

会津藩内での騒ぎを知った慶喜は神保修理を救おうと勝海舟(かつかいしゅう)を通じて身柄引き渡しを求めますが、会津藩は拒否。抗戦派の勢力によって修理は自害を強要されてしまうのでした。

1月末には旧幕府側だった諸外国でさえも中立の立場を表明、なりゆきを見守っていた諸藩も新政府側に恭順の意を示し、いよいよ旧幕府は窮地に追い込まれてしまいます。

この鳥羽・伏見の戦いは八重にとって非常にショッキングなできごとでした。参戦した弟の三郎が京の淀で銃弾を浴びて負傷。紀州から海路で江戸へ逃れますが、回復することなく会津藩邸で死亡してしまったのです。享年20歳。若い身空での戦死でした。
三郎の遺髪と衣装は会津の山本家に届けられ、遺品を目の当たりにした八重は泣き崩れたのだそうです。

覚馬の管見

兄・覚馬の幽閉

目を患い視力も失いかけていた覚馬もまた京に潜んでいましたが、事態の急変を受けて会津藩が朝敵になることに危機感を覚え、進言のため京を出たところで薩摩藩士に捕えられてしまいます。
この件も会津の山本家に報が行くのですが、なぜか「京の蹴上(けあげ・京都市東山区)から大津へ逃れようとして捕まり、四条河原で処刑された」と伝わりました。

三郎の死に続く訃報に八重は動揺し悲しみに暮れますが、母のさくはその報を決して信じませんでした
実際のところ、覚馬は処刑されておらず、京の薩摩藩邸に幽閉されていたのです。

薩摩藩邸跡
▲薩摩藩邸跡(同志社大学西門前)

幽霊されていた覚馬は視力を失いかけていたために口述で自らの意見を筆記させます。この意見書は管見と呼ばれ、22の項目に関してこれからの日本が辿るべき国家としての青写真が綴られていました。
具体的には産業の振興による富国化、特に製鉄の重要性や、港湾整備、商法制度の制定、三権分立と二院制議会の設置、女子教育の推進など、現在の日本で施行されている制度がそのまま描かれていたのです。

この管見を読んだ西郷隆盛らはいたく感心し、覚馬を幽閉の身に置きつつも冷遇せずに扱います。

会津藩の硬化

江戸に戻った徳川慶喜は朝廷への恭順の意を示し、江戸城を開場して新政府に屈服しました。

1868年(慶応3年) 江戸城開城

そして会津藩主松平容保も会津へ戻ります。容保もまた明治天皇への恭順の姿勢を表明しましたが、新政府の権威を認めることはありません。武装解除もせず、当然謝罪もしませんでした。
薩摩藩、長州藩に対する敵意は変わらず、やはり敵意を温存する庄内藩と結託して新政府との対抗意識を露わにします(会庄同盟)。

江戸城の開城は旧幕府側の勢力にとって大きな衝撃であり、開城を支持しない者たちの間で当然のように反発が起きました。
慶応4年(1868年)閏4月3日、旧幕臣の一部が下総国(千葉県)で新政府軍と騒乱を起こしたのをはじめとして(市川・船橋戦争)、宇都宮城の戦い上野戦争などの戦闘が各地で発生するのです。

着々と迫りくる新政府軍の進攻に危機を抱いた会津藩や庄内藩は、奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の朝敵の赦免嘆願を目的として結んだ奥羽列藩同盟(のちの奥羽越列藩同盟)をもとに結びつきを強めていきました。


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画像引用:京都市産業観光局(http://kanko.city.kyoto.lg.jp/)