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籠城作戦を続ける会津藩と八重。しかし戦況は好転せず…
1ケ月後、失意のうちに降伏を迎えるのです

八重と籠城の日々 そして落城へ

籠城作戦のゆくえ

八重、夜襲を禁じられる

夜襲作戦に参加した八重。作戦はみごと成功し、混乱した新政府軍は同志討ちをはじめるほどの戦果がありました。ここで一気に攻め進むのではなく、あくまでも夜襲は引き際が肝心と、夜襲軍は深入りすることなく撤退します。

八重の活躍は城内で籠城する子供たちまでも引き付け、翌日には子供たちまでも夜襲に参加したいと申し出ますが、当然藩が許すわけもなく、八重自身の夜襲も厳重に禁じられてしまうのでした。

仕事を与えておけば抜け駆けして夜襲に出かけることもあるまい、と八重に女中の仕事がどんどん舞い込みます。

婦女隊と八重

会津藩士・中野平内(なかのひょうない)の妻・こう子と娘の竹子(たけこ)、優子は当初逃げ遅れ、城内に入ることができませんでした。そこで、同じく逃げ遅れた女性たち総勢20余人で婦女隊を結成し、義勇軍として戦闘に参加します。藩の家老は城内に入って兵の世話をしてほしいと言いますが、婦女隊は頑として聞き入れません。戦えないのなら自決するとまで表明するものですから、藩もやむなく従軍を認めるのでした。

中野竹子
▲中野竹子

婦女隊たちは会津若松の涙橋で新政府軍と交戦します。(涙橋の戦い
面々は善戦しますが、竹子は鉄砲で頭を撃ち抜かれ戦死。娘の死を見送った母・こう子は、のちに鶴ヶ城に入り、八重と対面します。

実はこう子は八重のことを快く思っていませんでした。前線で戦闘に参加しなかった卑怯な人間だと断じていたのです。
こう子は八重を見かけると、婦女隊に加入して参戦しなかった理由を問質します。すると八重は「太刀ではなく、鉄砲で戦うため」だと答えました。砲術に長けていた八重は、太刀で戦うことの限界をよく判っていたのです。
八重に詰め寄ったこう子でしたが、娘を鉄砲で失い、籠城中もまた鉄砲の威力を目の当たりにして、考えを改めます。八重に鉄砲の扱いの指南を受けはじめたのでした。

会津唐人凧と焼玉押さえ

鶴ヶ城に籠城していたのは大人だけではありません。
当然子供も多くおり、大人たちの手伝いをしながらも、子供らしく元気に遊んでいました。
なかでも会津に昔から伝わる会津唐人凧(あいづとうじんたこ)を揚げては楽しんでいたようです。会津唐人凧は400年ほど前にオランダ商人によって長崎に伝わった凧で、長崎から会津へと持ち込まれました。

特筆すべきはそのデザイン。あかんべえと舌を出した侍の頭に鬼が噛みついた図柄は独特なもので、城内から揚がった凧を見た新政府軍の兵はバカにされたと思う上に、凧揚げをして楽しむくらいに城内は余裕があるのだと錯覚させる効果もありました。同時に城内の兵の士気は上がり、一挙両得の遊びだったのです。

会津唐人凧
▲会津唐人凧

もちろんいつも気楽に遊んでいたわけではありません。子供や女性の大切な仕事のひとつに焼玉押さえという作業がありました。焼玉押さえとは新政府軍によって城内に撃ち込まれた焼玉式焼夷弾(やきだましきしょういだん)に駆け寄り、濡らした布などで包みこんで発火を防ぐ仕事。炸裂のおそれが高いため、非常に危険なものでした。
明治期の軍人・大山巌(おおやまいわお)の妻・大山捨松(おおやますてまつ)も8歳当時、鶴ヶ城に籠城しており、焼玉押さえに従事している最中、大けがをしています。

焼玉押さえは砲弾が飛んでくる度に行われましたが、その凄惨さを極めたのが籠城から22日目の慶応4年(1868年)9月14日に始まった総攻撃でした。冬が来る前に片をつけてしまいたい新政府軍は、なんと一日あたり2,000発もの砲弾を撃ち込んできたのです。

焼玉式焼夷弾
▲焼玉式焼夷弾

あまりもの攻撃に、藩主・松平容保は焼玉と西洋式の大砲の説明を求め、それに対して八重が応じます。撃ち込まれ、焼玉押さえにて冷やした焼玉を実際に容保のもとに差し出して、分解し、構造を難なく説明してのけました。

また、砲台からは八重の夫の川崎尚之助が新政府軍に向かって大砲を撃ち、八重もまた尚之助を助けて砲撃します。八重の砲撃は実に正確で、周囲はさすがは砲術一家だと感心しきりでした。

全面降伏

父、山本権八の死

そのころ城の外から食糧を補給するための補給路の維持のため、会津兵が城の南で戦闘を重ねていました。
一ノ堰(いちのせき)と呼ばれる城から数キロメートルの場所で衝突した両軍は、最初こそ会津の優勢で推移します。(一ノ堰の戦い

しかし日を改めて攻撃してきた新政府軍が戦局を優位に進め、会津軍を破るのです。会津軍にとって大々的な敗北ではありませんでしたが、退却を余儀なくされたことにより、食糧の補給路を断たれてしまい、にっちもさっちもいかなくなります。

この戦闘には八重の父、権八が61歳という高齢にもかかわらず参戦していましたが、あえなく戦死してしまいました。
権八の墓は一ノ堰の光明寺にあり、共に戦った玄武隊の墓の隣に並んであります。

権八の墓
▲権八の墓(福島県会津若松市門田町大字一ノ堰字村西500)

そして落城へ

そのころには奥羽越列藩同盟は完全に崩壊しており、仙台藩も米沢藩もともに新政府軍に降伏していました。食糧の補給路は断たれ、城内の衛生状態も極端に悪くなり、城から逃げ出す藩士も出る始末でした。

時を見計らって米沢藩から会津藩に降伏を促す手紙が届きます。米沢藩も藩主の命は降伏によって奪われることがなかったため、藩主・松平容保は降伏の意思を固めます。

籠城から28日目。新政府軍の土佐藩士・板垣退助(いたがきたいすけ)は降伏の条件を提示しました。
その条件は全部で6つ。

一、大手門に降伏と書いた白旗を掲げること
一、藩主・松平容保は新政府軍の軍門まで来て降伏を述べること
一、藩士は猪苗代に謹慎すること
一、14歳以下と60歳以上の男性と、全世代の女性はどこに暮らしてもよいこと
一、負傷者は青木村で治療すること
一、武器などは新政府軍に引き渡すこと

この条件を全て呑むことにした容保は降伏の白旗の製作を命じました。といっても、包帯は負傷者の手当てに使われており、まともな白い布はどこにもありません。やむをえず白い端切れをたくさん集めて縫い合わせて一枚の大旗に仕立てたのです。
八重はこの時の様子を「縫う者は涙で針が進まなかったと申していた」と後日述べています。

明治元年(1868年)9月22日。籠城からちょうど30日目の朝。大手門に白旗が揚がります。旗には大きな文字で降参と書かれていました。
これにて会津藩の、そして八重の戦いは幕を閉じたのです。

損傷した鶴ヶ城
▲砲撃で損傷した鶴ヶ城

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画像引用:福島県観光交流課(http://www.yae-mottoshiritai.jp/)、Rama