home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

新政府軍との戦いに敗れた会津軍は鶴ヶ城を明け渡します
八重は失意のうちに城を出るのですが…

八重が残した別れの和歌

鶴ヶ城を出る八重

降伏の無念

大きな白旗が掲げられたのち、鶴ヶ城の追手門前の甲賀町通りにて降伏式が行われました。藩主・松平容保と喜徳(のぶのり)の親子が謝罪書を差し出し、新政府軍代表の薩摩藩士・中村半次郎(なかむらはんじろう・桐野利秋)が立ち合います。

藩の家老・萱野権兵衛(かやのごんのひょうえ)は容保の責任を問う新政府軍に対し、「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べて容保をかばいました。
結果、容保は会津若松市一箕町八幡の妙国寺(みょうこくじ)にて1ヶ月の謹慎で済みましたが、権兵衛は東京の久留米藩邸にて預かりの身となり、明治2年(1869年)に飯野藩保科家下屋敷にて切腹します。

降伏式
▲降伏式の様子

降伏式の時に路上に敷かれた赤い緋毛氈(ひもうせん・フェルト)は、式典の後に会津藩士・秋月悌次郎(あきづきていじろう)によって小さく切られて各藩士に渡されました。泣血氈(きゅうけつせん)と呼ばれ、逆賊の汚名を着せられた恨みを忘れないため、と言われています。
この泣血氈は降伏式があった場所に建つ会津酒造歴史館内にて展示されています。

会津酒造歴史館
▲会津酒造歴史館(福島県会津若松市東栄町8-7)

八重が残した和歌

午後には新政府軍の者たちが入場し、城内に残る人員などの調査を行いました。当日の様子を八重は後日「考えると残念で、今でも腕を扼(やく)したくなります(締めつけたくなる)」と語っています。
そして夜。月が城を照らします。八重は哀しみのうちに月を眺めました。

明日の夜は 何国の誰か眺むらん 馴れしみ城に残す月かげ

八重は心情を切々と詠んだこの和歌を城内三の丸雑物庫の白壁にかんざしを使って彫ったとされています。現在、雑物庫は現存せず、実際の和歌を確認することはできません。和歌は「あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしみ空に残す月影」など微妙に異なるものが他にも伝わっています。

翌日は鶴ヶ城の明け渡しとなりました。新政府軍が入城し、籠城で腹をすかせた城内の者におにぎりを提供しますが、白米のみの銀シャリだったため、ぴかぴかと輝き、毒でも入ってるのではないか?と囁く群衆。それでも空腹に勝てるわけもなく、八重たちは平らげます。

噂と言えば、もうひとつ。新政府軍の入城で男子は切腹、女子・子供は追放になるとの噂も流れました。それならば潔く、と八重は男装のまま男子たちに混じって行動するのです。
もちろん噂はただのデマで、男子は降伏条件どおりに「藩士は猪苗代に謹慎すること」となり、女子・子供は解放となりました。

八重と川崎尚之助の離婚

男子とともに猪苗代へ向かおうとする八重。亡き三郎の名を騙り、隊列に加わりますが、道中で女だと言うことがあっさりバレてしまいます。当然のように追い返されてしまい、八重は会津に残ることになりました。

猪苗代湖
▲猪苗代湖

かたや夫の川崎尚之助は猪苗代で謹慎し、のちに東京へ移っています。これまでは会津藩士ではない尚之助は鶴ヶ城明け渡しの前に城を去ったという説が有力でしたが、彼が会津藩士であったと確認できる資料の発見もあり、現在では否定的です。

また、八重と尚之助は離婚していますが、その時期に関しても諸説あります。
八重が他藩の尚之助を巻きこまないようにするため、鶴ヶ城籠城戦を前に離婚したという説は前述の理由によりあまり信憑性がありません。
そして鶴ヶ城開城間際に離婚したとの説ですが、当時の多くの会津藩士が猪苗代謹慎に伴って妻を会津若松に残したため離婚となったという史実があるため、かなり有力な説です。
さらにはまだこのときには離婚していないという説もあるのです。

八重、会津を去る

猪苗代行きに失敗した八重は失意のうちに会津若松へ戻りますが、そこに帰る家はありません。もともと住んでいた屋敷は新政府に没収されていたのです。
やむをえず、会津の山村にある山本家に奉公していた者の家に身を寄せます。そこでの暮らしについては詳しくは判っていません。おそらく農業などを手伝って生計を立てていたのだろうと推測されます。

かたや開城後、鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居していた松平容保でしたが、生まれたばかりの嫡男の容大(かたはる)が家名存続を許され、明治2年(1869年)11月、新たに陸奥国内(青森県東部)に斗南藩(となみはん)3万石を与えられました。

翌明治3年(1870年)1月に謹慎を解かれた会津藩士たちは、春あたりから新天地・斗南藩へ向かいます。しかし、会津藩の実質10分の1の石高しかない斗南では、ろくろく食べていけないと、斗南行きを見合わせる者も多くいました。八重の家族も残留組のひとつです。
一方、尚之助は他の会津藩士に遅れること数カ月後、斗南藩へ入りました。

その年の11月頃、八重の家族は米沢藩士の内藤新一郎(ないとうしんいちろう)を訪ねます。新一郎は戊辰戦争前は尚之助とともに、砲術を学ぶために八重の家に寄宿しており、尚之助の弟子的な存在でもありました。
このときに記名した「各府県出稼戸籍簿」に「羽前米沢県管内 城下 内藤新一郎方出稼 川嵜尚之助妻」と記録が残っており、これが少なくともこのときまで八重と尚之助は離婚していないという説の根拠になっています。


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画像引用:福島県観光交流課(http://www.yae-mottoshiritai.jp/)
うつくしま観光プロモーション推進機構(http://www.tif.ne.jp/jp/photo/)