home 八重 襄 八重&襄 八重 参謀!黒田官兵衛の決断 平清盛ゆかりの地を訪ねる

会津藩の敗戦で城下を去った八重たち。
そこへ京から嬉しくも意外な便りが届きます…

八重と覚馬の再会

覚馬、京都府顧問になる

釈放後の覚馬

薩摩藩邸に幽閉されていた覚馬は、管見の理念に打たれた西郷隆盛らによって優遇されてはいましたが、それでも不自由な生活には変わりなく、目の患いは悪化するばかりでとうとう失明してしまいます。
さらに腰まで痛めてしまったため歩行もおぼつかなくなり、仙台藩邸の病院へ移ることに。そこで覚馬は岩倉具視の訪問を受けました。

幽閉されてから一年後の明治2年(1869年)にようやく釈放されて自由の身となった覚馬は当時の京都府大参事(現在の副知事)河田佐久馬(かわたさくま、景与)に推挙されて、顧問を務めることになります。河田もまた覚馬の管見に惚れこんだ人物の一人でした。
管見は明治新政府にも閲覧されることになり、やはり高い評価を受けます。それを受けて覚馬は国のお墨付きでの正式な京都府顧問となり、河田の後任となった槇村正直(まきむらまさなお)のもとで腕を振るうのです。結果的にどんどん焼けを起こしてしまった責任感から来るものもあったかもしれません。

ちょうどそのころ、東京奠都がありました。長年ずっと都であり続けた京から天皇がいなくなるという事態に、京都府民は大いに不満を抱えます。その不満を抑えるための対価として新政府は租税免除の特典や10万両の産業基立金、15万両の勧業基立金を京都府に与えました。その金銭を使って新時代の備えとすべく槇村は覚馬と二人三脚で次々と新たな府政を組み立てていきます。

柳池校の碑
▲柳池校の碑(京都市中京区柳馬場通御池上ル虎石町45-3)

明治2年(1869年)5月に日本で最初の小学校である上京第二十七番組小学校(のちに移転し柳池小学校(柳池校)となる。現・京都市立京都御池中学校)と下京第十四番組小学校(のちの修徳小学校。現・京都市立洛央小学校)を同時に開校させ、同年中になんと64もの小学校が誕生。
さらに中学校、洋学校、盲亞院、女紅場(女学校)も開校して教育に力を入れる一方、舎密局(化学局)、製革場、製紙場、勧業場、製靴場などを立て続けに開設して、産業の振興を図りました。

覚馬を支えた女性

次々に京都の振興策を打って出る覚馬でしたが、いかんせん盲目になってしまったため、普段の生活には苦労がついてまわります。その覚馬の文字通り目となり手足となった少女がいました。
彼女の名は小田時榮(おだときえ)。禁門の変の際に目を負傷した覚馬に対して、京で知り合った友人の小田勝太郎が妹の時榮を世話係として就けたのです。

献身的に覚馬の世話をする時榮は、薩摩藩邸に幽閉されている間も藩邸に通って世話を続けたといいます。
釈放後は一緒に住むようになり、京都府顧問就任後は槇村正直の邸宅の隣の家を買い取ってそこで暮らしました。
ちなみにその屋敷は江戸火消しの新門辰五郎(しんもんたつごろう)の京都滞在中の邸宅でなかなかの広さの立派なものだったそうです。

新門辰五郎
▲新門辰五郎

八重と覚馬の再会

京都へ向かう八重

明治4年(1871年)のある日のこと。八重が生活をしていた会津の西にある村に、薩摩からの者が偶然訪ねてきて農夫と話しこみます。薩摩人は農夫が八重とゆかりのある人物だと知らずに、薩摩藩邸に覚馬が幽閉されていたこと、今も存命であることを話します。
農夫からの報せを聞いた八重たちは、死んだと聞かされていた覚馬の無事に驚きながらもどれほど喜んだことでしょう。早晩、家族揃って京都の覚馬のもとに向かいます。ただ一人を除いて…

覚馬の妻であるうらがそうです。うらは地元を離れたくなかったのか、他に理由があるのか離縁を望み、京都へは行きませんでした。事実上の離婚です。

そして、八重と八重の母さく、覚馬の娘みねの三人は京都の覚馬邸に到着します。応対に出てきたのは少女の時榮。使用人なのかと思ったのも束の間、実は覚馬の愛人だと知った八重たちはたいへん驚きました。それもそのはず。このとき八重は26歳。時榮は18歳。自分より17も年上の兄が自分より8つも年下の恋人を作っているとは思いもよりませんよね。さらには赤ん坊までいると知って二度びっくり。赤ん坊の名は久榮(ひさえ)といいました。

系図
▲八重の親族

うらと離婚が成立したため、覚馬は時榮と入籍しました。八重たちは覚馬の家で暮らし始めます。
こうして舞台は会津から京都へと移ったのです。


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画像引用:Mariemon(http://ja.wikipedia.org)
幕末ガイド(http://bakumatsu.org/men/view/199)